これも道庁の肝煎りで工業奨励のために行ったものである。道庁は明治三十九年六月、染織講習所を設け、講習所規程を道庁令で発して奨励した。その規程によれば、受講資格は技術修得後家庭にあって伝習技術を活かせる者で、期間は六カ月間であった(北タイ 明39・5・25)。同年十二月には最初の受講生二〇人が卒業、研究生として自宅において機台一式の貸与を受け、糸の染織から機織まで行った(北タイ 明39・12・21)。
やがて四十四年一月には、染織講習の第一〇回卒業生を出し、道庁では家庭において染織・機織業に従事する者が増加したので、製品の販路につとめねばならなかった。当時卒業生六六人中機台を持って機織に従事している者が二八人もおり、道庁では、六六人が一日一反を織るとして一カ月一九八〇反を見込んでいた(北タイ 明44・2・4)が、実際どの程度の収入につながったか定かではない。
一方民間でも、四十年元製糸業家の松崎龍平が染織学校を北三条東三丁目に設立して伝習を開始した(北タイ 明40・7・3)。翌年松崎は、模範織染講習所を北五条東三丁目に開設し、一四歳から二五歳の男女に月謝一円で教えた(北タイ 明41・12・5)。
大正期に入って内職の奨励は一層切実になった。大正三年(一九一四)一月、有路武治(ありじたけじ)が、札幌商業会議所後援のもと、大阪、四日市、名古屋など染織業先進地帯へ機業視察に出かけた。そのねらいは、札幌が本州諸都市とは経済状態を異にしているため、女性の多くがこれといった仕事もしないで暮らしていて、近年諸物価騰貴して生活困難な状態なので何か適切な家庭的工業を授産することが急務ではなかろうか、そのために機業を興そうというものであった(北タイ 大3・1・24)。こうして内職の奨励が叫ばれたのである。