ヨーロッパでの第一次大戦の結果、日本国民に精神的に、物質的にもたらした影響は多方面にわたっていた。そこで大戦後の日本国民生活の改善を図るために、文化生活・経済生活全般にわたって各方面の研究者・文化人を講師として、北大教授の森本厚吉を主幹として、大正九年四月東京の警醒社書店に通信大学文化生活研究会が設立された。メンバーは、三宅雪嶺、高野岩三郎、森本厚吉、穂積重遠、吉野作造、有島武郎、賀川豊彦、有島生馬、松村松年、星野勇三、半沢洵、与謝野晶子、井上秀子、手塚かね子、森本静子など二六人にのぼった。主幹の森本によれば、「此事業は我国では之を以て嚆矢とするが米国あたりでは既に実行し来って偉大なる効果を挙げていて恰も大学教育普及事業の一種とも見るべきもので、我国でも戦後急変した新時代には是非とも国民の生活を改善して新時代に適応した文化生活を営むやうにし、此の実を揚ぐる為には科学的研究を行はねばならぬ」というのが設立の意図であった。具体的には、時代の変化を受けとめた、たとえば家族制度、婦人問題、都市生活、消費経済、婚姻問題、家族と宗教、社会病理、家庭と芸術、食物経済論、住宅論、家庭生物学、園芸学、細菌学、家庭料理、経営育児などをテーマに毎月『講義録』のようなものを刊行する計画であった。
この森本厚吉を主幹とする文化生活研究会は、北大関係者を多くそのメンバーに持ち、大戦後の日本国民の行方を模索するために、まず講演会を各地で開催することから始められた。森本は講演会で「人間の価値――生活権の要求」と題して、国家万能主義が滅んだ現在、生活権を主張することは生来の権利であり、人間の価値を進め高めるためにどうしても生活権の確立が肝心と強調するのだった(北タイ 大10・5・6)。文化研究会の雑誌『文化生活』が発刊されたのは十年六月である。この前後、明治の「文明」にかわり、「文化」が喧伝され、「文化村」「文化住宅」「文化台所」等々の名称として用いられるようになった。