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開幕まで

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 道博の主会場となった札幌区協賛会へは、道協賛会から花火、臨時饗応、室内旅館設備、共同合宿所の設備、市内装飾、歓迎門建設などが委託された(北タイ 大5・12・17)。
 六年に入って道博の具体的設計図が次第に明らかになってきた。会場は中島公園の第一会場、北一条西四丁目の第二会場、小樽区第二区埋立地の第三会場の三カ所に決定していたが、特に第一会場は斬新な趣向を網羅し、もっとも華やかに、あたかも楽園を建設するがごとき様相であった。まず総面積三万五〇〇〇坪の第一会場には、農業館、農業別館、園芸館、拓殖教育衛生館、水産館、林業及鉱業館、土木交通館、機械館、参考館、動物舎等を網羅する予定で、そのうち農業館は当時の物産陳列場をあて、拓殖教育衛生館は五〇〇坪の永久的工事を施し、閉会後拓殖記念館として存置する計画であった。しかも、その各建物の構造はルネッサンス様式をとり入れ、かつそれぞれの建物に意匠を工夫し、農業館には農具を現し、塔部分にはアイヌ模様を、機械館には中央部分にボイラーを、水産館には船にちなむ意匠を加えるものであった。正門にいたっては日本の博覧会にかつてないような門柱高さ四八尺(約一四・四メートル)、その前には長さ一〇間(約一八メートル)もある大万歳旗を建てるというものであった。会場内池の中島には迎賓館を設けハイカラな名誉橋を架け、池中には九〇尺(約二七メートル)の噴水が水を噴き上げ、また忠魂碑のある広場には花園を設け、一〇〇尺(約三〇メートル)もある北極塔を建て、夜はイルミネーションで彩るというものであった。ことに道博は、電気の力を存分に利用し、夜間も観覧者に見てもらうべく、通路には二〇〇〇燭光のアークライトで不夜城を演出しようとする試みがあった。
 これら一切の設計は、博覧会建築を多く手がけていて定評のある中條精一郎(なかじょうせいいちろう)と道庁の家田於兎之助(いえだおとのすけ)技師に委嘱された(北タイ 大6・2・27)。
 六年四月第一会場が、七月第二会場がそれぞれ建築着工され、準備は着々と進んだ。第一会場の当初予定面積はさらに広げられ五万坪になった。札幌区協賛会では、寄付金を銀行、会社を手始めに募り、各祭典区を通して募集に奔走した。

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写真-20 開道五十年記念北海道博覧会第一会場全図
 
 開道50年記念北海道博覧会は、中島公園を第一会場に、大正7年8月1日より50日間開催され、観覧者数延べ142万人余を集め、大盛況を博した。見てのとおり第一会場には、北極塔を中心にローマの大建築を思わせる水産館を中央に、馬蹄形に陳列館が配置され、池の中島には迎賓館とそれを結ぶ名誉橋が架けられ、噴水が空高く吹き上げ、華やかな楽園を思わせる演出がなされた(弥永北海道博物館蔵)。