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キャンディからキャラメルへ

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 大正七年の米価暴騰の折、いち早く札幌で米の廉売に着手したのが古谷辰四郎商店であったことは本章四節でも触れた。同商店は、南一条西一丁目にあって米穀・荒物・乾物・雑貨卸問屋を営み、〓(かねまる)の屋号で親しまれていた。大正三年、古谷辰四郎は北海道の有畜農業で豊富に生産される牛乳を活用して、同志とはかり北海道煉乳株式会社を札幌区苗穂町に資本金二五万円で設立した。当時、農家が生産した牛乳のうち道内で飲料に消費されるのはわずかの量で、ほとんどが煉乳に加工して本州向けに販売されていた。
 その一方、〓古谷商店の方では同六年製飴業に着手、これが「カネマルキャンデー」の銘柄で七年六月から生産、販売された。これは麦芽糖と馬鈴薯から取れる澱粉を用いて水飴を作る要領で作り出されたものであった。ゼリー状の飴をサイコロに切ってオブラート(当時のは澱粉を薄い皮膜状にしたもの)に包み、乾燥させてからポケット状の箱に入れたもので、これが一般によく売れた。このオブラートの開発も古谷辰四郎自身が手掛け、道内に手広く販売された。はじめ二四個の箱入りが一〇銭で売られたが、当時高級品の部類であった。のち一箱一二個入りに変えられた。

写真-23 古谷商店のキャンデーの広告(北タイ 大8.5.10)

 キャンディに続いて古谷は、子供向けおやつビスケットを手掛けるにいたる。すでに八年に製麵部を設け、日本製粉株式会社と大きな取引があった関係から小麦粉を安く仕入れることができ、主にうどんを製造していた。十一年、ビスケット工場を設け、主にハードタイプのビスケット製造に着手し、道内に販路をひろげた。
 キャンディ、ビスケットに続いて、子供のおやつの王様「フルヤミルクキャラメル」が登場するのは十四年のことである。すでに森永が猛烈な勢いで売り出している時代で、古谷商店では乳製品を扱っていた関係上、牛乳を少しでも菓子類にということで製造開始、二四個入り一〇銭で販売された(故古谷辰四郎尋思録、大正の話 さっぽろ文庫43)。こうして大正期にまだ高級品の部類だがハイカラなおやつが登場した。