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入学試験

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 下級学校から上級学校への志願者を選抜するための入学試験が制度として整備されたのは、文部省が「尋常中学校入学規程」(省令第二四号、明27・9・29)を制定した明治二十七年である。「入学試験」という言葉もこの規程のなかではじめて使用された。それまでは五年制の中学校(旧制)へは高等小学校二年の課程を卒業した資格だけで入学できたが、志願者の増加に伴って試験制度を導入した。札幌尋常中学校は二十八年に開校したが、この制度は第一期生から適用になった。
 明治三十~四十年代の札幌区内には、中等教育機関としての中学校が北海道庁立札幌中学校と私立北海中学校、高等女学校が北海道庁立札幌高等女学校と私立北海高等女学校に限られ、しかも全道のみならず他府県からも志願者が殺到し、「狭き門」となっていた。こうした傾向は、四十一年の義務教育年限延長に伴って、尋常小学校第六学年と中等学校第一学年とが制度上接続するようになってから一段と強まってきた。札幌区では区制施行後、区立小学校のほとんどに高等科を併置したり、区立女子職業学校を新設したりするなど、少年少女の立身出世の手段としての上級学校への進学熱に対処してきた。
写真-8 札幌中学校生徒募集広告(北タイ 明37.2.14)写真-9 『大正三年版入学試験問題及解答』写真-10 札幌高等女学校生徒募集広告(北タイ 明39.2.1)
写真-8
札幌中学校生徒募集広告
(北タイ 明37.2.14)
写真-9
『大正三年版入学試験問題及解答』
 
写真-10
札幌高等女学校生徒募集広告
(北タイ 明39.2.1)

 ここでは高等科への進学ではなく、中学校への入学試験の実態を主として札幌中学校(大正四年に札幌第一中学校と改称)を例に引いて紹介しよう。札幌中学校の場合、受験資格は満一二歳以上の高等科二学年修了者であったが(小樽新聞 明39・3・3)、同校への志願者は表6の通り三十八年以降急増し、競争率もほとんどの年が三倍以上の「難関」であった。入学試験は二日間にわたって実施され、一日目は身体検査、二日目は学科試験が行われた。学科試験は国語(講読・作文・習字)と算術の二教科であった。
表-6 札幌区内各中学校入学志願者数・入学者数の推移

校名

年度
札幌中学校札幌第二中学校私立北海中学校
志願者入学者競争率志願者入学者競争率志願者入学者競争率
明36419人160人2.6倍-人-人-倍-人-人-倍
 374231562.7
 385291224.31681501.1
 395811533.81981651.2
 405691394.12651581.7
 415511324.22381561.5
 425181343.92351501.6
 435701444.02651501.8
 446721295.22871871.5
大 17382403.12801751.6
  24731453.32251002.32471651.5
  33731512.5255942.72401481.6
  44381512.9186971.92681801.5
  53971502.6235952.52471641.6
  64111512.72401002.42481671.5
  74301502.93151003.24041502.7
  85451503.63061003.14791872.6
  95881503.94281014.24172171.9
  106772003.44421004.45512202.5
1.各年度の数値は第1学年分である。
2.札幌中学校は大正4年度より札幌第一中学校と改称。
3.文部省普通学務局編『全国中学校ニ関スル諸調査』(のち『全国公立私立中学校ニ関スル諸調査』と改題)より作成。

 札幌区の少年たちはどのような成績を修めたのであろうか。四十三年度の入学試験では区立小学校からの志願者は三五二人で、入学者は九八人に過ぎなかった(北タイ 明43・4・26)。実に七〇パーセント以上の少年は不合格であった。札幌区の志願者全体としては、「作文は尤も不成績にして八十五点以上は十名に過ぎず、又講読十九名習字三十七名算術六十三名なり、而して其答案区々にして平常の教授方を推想するに難からず、講読の熟句の解き方の如き奇々妙々なるもの尠からず、算術の如き運算の悪しき事甚だしく、又習字の如きも小学校にて平常細字に偏し居るが為大字の字つもり悪しく」(同前)と酷評されたように不成績であった。同じ年、中央創成尋常小学校では一四〇人が志願したが、入学者はわずかに一九人であった(同校 沿革誌)。日々の授業で獲得した学力は入学試験にはほとんど通用しなかったのである。試みにその入学試験問題中、国語科(読方)の問題を掲げておこう。制限時間は一時間三〇分である。
 左ノ文ヲ解釈セヨ
 伊能忠敬人となり正直にして外見を飾らず気力盛にしてかつて困難に屈せしことなし年七十をこゆるまで険をこえ波をしのぎ風雨寒暑をおかしてつひによく精密なるわが国の地図を製し時の人後の学者に大なる利便を与へ外人をして驚嘆せしめたり。
 左ノ棒ヲ引キタルモノニ読方ヲ片仮名ニシテ記シ全文ノ意義ヲ解ケ
(イ)公の事を先にして私の事を後にせよ。
(ロ)着実にして僥倖を求めず職業に勤勉し正しき生活をなすは人たるものゝつとめなり。
 左ノ片仮名ヲ漢字ニ改メ書クベシ
(1)イジユーシヤ  (うつりすむ人)
(2)ユイゴン    (いひのこすことば)
(3)イシ      (やまひをなほす人)
(4)フクソー    (みなり)
(5)シヨーチ    (けしきよきところ)
(6)ハイブツリヨウ (すたりものをつかふこと)

 当時の入学試験問題は、一方的に中学校から要請される学力水準に規定されており、志願者はそれへの対応を求められていた(木村元 「受験知」の生成と浸透)。こうした少年たちのニーズに応える形で、四十三年秋に発足したのが受験予備校の先駆とでもいうべき「札幌中学受験準備会」である(北タイ 明43・11・10)。同会は山田幸太郎(札幌中学校校長)、常見吉平(同校数学科主任)、江原亥次郎(同校国語科主任)の協力を得て、小学生を対象として中学校志願者のために数学と国語の「準備教授」を行った。指導は個人教授で、本人の都合に合わせて登校前でも放課後でもそれを受けることができ、三〇人が通学していた。これに関連して、大正元年には中等学校志願者向けに、各校の過去に出題された入学試験問題と解答などを収録した参考書が冨貴堂書房(札幌区)から発売された。また、四年には『北海タイムス』が紙上で「全道入学志願者の参考」として、前年度の入学試験問題のポイントを教科ごとに解説した「中学入学枝折」を連載した。これらの事例は中等学校の入学試験が社会的関心を集め、それが問題化していたことを示す証左といえよう。
 さて、札幌中学校への入学難は、大正二年の北海道庁立第二札幌中学校開校後もそれほど緩和されなかった。三年度の競争率も二・五倍で、札幌区の少年たちは二〇五人が志願して、入学者は九一人で半数に満たなかった(北タイ 大3・4・20)。学校別入学者では、北海道師範学校附属小学校が一七人中、一六人が入学したのに対して、豊水尋常高等小学校では二二人中、五人に過ぎなかった。五年度の競争率も二・六倍で、札幌区では二二九人が志願して、入学者は九一人でやはり半数に満たなかった(北タイ 大5・4・7)。学校別入学者では北海道師範学校附属小学校が二四人中、一九人に対して、北九条尋常高等小学校では五三人中、一三人に過ぎなかった。
 こうした中学校への合格率の差は、義務教育が暗黙の前提としていた学校・児童の同質性や教育水準の同一性を公然と否定するとともに、小学校のなかに「進学校」を形成し、進学という価値に基づく格差を生みだしていった(木村 「受験知」の生成と浸透)。また、中学校への入学難は小学校の教育を歪め、少年の健全な発達を阻害した。それを大正八年の『小樽新聞』(大8・1・22)は次のように報じている。
従来各地小学校に於て中等学校入学志望者のための試験準備の教育を施し来れる例尠からず、近来は一層其弊を増し為に児童の負担を重からしむるのみならず甚だしきは正課目中一部課目の教授を為し、入学試験課目のみに全力を注ぎて教授を施し居る向きさへあり。斯くては教育の本旨に悖り児童心身の発達を阻害し禍を将来に残すものにして教育上大に考慮を要すべく(後略)

 このように中学校の入学試験には大きな弊害が伴っていた。しかし、その後も是正されることなく、大正末期以降はますます過酷化していった。