札幌には現時三箇所の図書館あり。就中学者街に在るもの最も大に篠路街に在るもの之に次ぎ、南三条に在るもの最小なり。学者街の図書館には学術技芸百般の図書内外となく蒐集され、篠路街に在るものは最も工業書に富み、南三条にあるものは通俗技芸書、歴史、小説等に富めり。市民毎日館に満ち無賃にて書籍を閲覧せり。別に番人あらざるも書籍は紛失せざるのみか、備付の書画順序一も転倒することなし。個人的道徳の進歩かくばかりなるは蓋し世界に尠しとす。
このように安東は五〇年後の札幌を想定して、図書館は「学者街」「篠路街」「南三条」にそれぞれ存在し、蔵書構成は所在地の性格によって異なり、利用する市民のマナーも優れていると記している。この論文は安東自身も語っているように、「札幌の地は早晩大学府となり北海道工業の中心となるべしとにあり。之れ余が札幌の未来を卜する企望及び抱負」(道毎日 明30・10・10)を述べたものであるが、逆説的な図書館設立促進論ともいえよう。
また、『札幌沿革史』のなかでは、安東論文とは別にこういう指摘もあった。「特に札幌教育の為め、一大欠点として、批難すべきは図書館の設けなきにあり」。この批判は札幌の教育を振興するうえで、図書館は欠かせない施設という認識に基づいており、教育事業の一環として図書館の存在を位置づけようとしていた。
安東がこの「五十年後札幌未来記」を著わした当時、札幌の図書館は、札幌農学校や北海道尋常師範学校など教育機関に付設するそれに限られ、広範な区民が利用する公共図書館は存在しなかった。しかし、明治三十年代前半には、札幌に公共図書館の設立を促す意見が当時のマスメディアを通して発表される。その先鞭をつけたのはやはり安東嵩村である。
安東は三十年十月、『北海道毎日新聞』紙上に「札幌に官民俱楽部と図書館を設くるの議」(明30・10・10、12)を発表した。そのなかで、安東は日清戦争後の国際情勢を踏まえ、今後札幌が「北門の鎖鑰」としての北海道の「重要多忙」の位置を占めるようになると予想し、「本道の進歩上最も必要」な施設として官民俱楽部とともに「札幌図書館」の設立を促している。そして、「図書館の進歩は社会の進歩と殆ど正比例」し、「札幌の如き進取好学の紳士を集めたるの地にして未だ図書館設立の企図なきは余が寧ろ怪しむ所なり」とも述べ、その設立にあたっては「政府よりの設立」「有志家の私設」など具体的な方法を提示するが、安東自身の意見は留保している。安東の意見は大英博物館やパリ国立図書館など、当時の欧米の図書館事情に精通し、それとの対比で日本や札幌の図書館施設の貧困さを論じているところに特徴がある。