明治三十四年三月、浜名秋水、工藤雲甲、山沢猪村、関場理堂らによって漢詩の団体である詩学研究会が結成され、毎月例会を行うこととした。同時に浜名によって詩学研究所という名称の伝習塾も設立された(道毎日 明34・3・12)。詩学研究会の例会は、ほぼ毎月一回開催され、席題を設けて各自作詩したが、同年八月の例会が中止になって以来、新聞記事からは姿を消している。
その後三十六年に豊水吟社が再興された。前巻で記したように、同社は明治十年代に開拓使官員によって結成され、二十年代にもやはり同名の結社が活動していた。今回の再興の中心は新居湘香(敦二郎)、小川黙渕、牛島雪村、関場理堂などであった。新居は徳島県の出身、十九年二月から二十三年十月まで北海道庁に勤務して札幌にあったが、三十六年に今度は札幌農学校の漢学教師として再び来札した。以前から漢学の素養にすぐれ、在札中も、たとえば北海タイムス社が元旦紙上に登載すべく詩歌俳句を募集した際、他の部門は東京の歌・俳人等が選者となっているのに、漢詩のみは在札の新居が担当していることでもその評価が知れよう。また小川黙渕は世話人的な役割も果たしていたようであるが、北海タイムス社員とあるので、おそらく小川忠之助であろう。
同社は三十六年十一月二十三日に第一回集会を開き、毎月例会を開くことなどを定めた。その後ほぼ毎月例会を開き、三十九年四月には北斗画会と聨合詩画会を開き、またたとえば東北の詩人をむかえての臨時雅集を開き、また三十九年十月四日(旧暦九月十五日)には豊水吟社社員九人、画家三人、歌人一人が集まって観月会を開催するなど、文化人間の交流を図る活動も行った。
しかし四十四年一月、新居が職を辞して離札したあと、活動は急激に衰えたらしく、同年十月に開かれた観月会の記事にも「久しく集会を欠きたるを以て」(北タイ 明44・10・10)とされている。