大正二年に小樽高商で外国語教育の一環として外国語劇が行われたが、札幌ではそれに三年遅れて五年三月に、東北帝国大学農科大学で同様の目的で農大英語発表大会の名で開催された。演目は「ヴェニスの商人」などで、「イヂター・プロ・テム」は学生か英語教師の書いた軽いものといわれている。七年二月には新築の同大中央講堂を使用し、イブセン作の「社会の敵」等が上演され、八年二月には前年の大学の名称変更にともない、第一回北大外語大会と回数まであらたにして再発足し、シルレル作「ウイルヘルム・テル」などが上演された。この後も九年にはシルレル作「群盗」、十年にはシェークスピア作「ジュリアス・シーザー」など、十一年にはロマン・ローラン作「狼」などが上演されたが、同年文部大臣が全国の大学高専に対して、学校劇の禁止を通達し、北大の外語劇も同年で中止された。
この劇の目的は前述のとおり外語教育であるが、実際は多くの区民の集う年中行事でもあった。中央講堂は常に満員の盛況で、結果としては一つの重要な演劇運動とさえいえるものであった。また指導者としては同大ドイツ語教師のコーラー、英語のモルガン講師らがあたったが、とくにコーラー夫妻は演劇だけではなく音楽にも堪能で、男声合唱を手がけ、大正九年には劇と劇とのあいだに男声合唱が演奏され、翌年にはさらにバイオリン独奏等も加わっており、演劇に止まらず、音楽運動としての側面も持っていたといえる。このほか十年五月に北海演劇団が組織されたが、むしろ娯楽趣味的なものを目的とした団体だったらしく、主として歌舞伎を発表している。
ついで十一年三月に札幌劇協会が結成されて、同月に脚本朗読を主体として発表会を開催、六月に第一回の試演会を開催した。中心となったのは横田章、ほかに北大外語劇に関わった学生達が役者としてかなり参加した。なお同会は札幌劇研究会として発足し、同年一月に第一回の試演を行ったとする記事(北タイ 大11・3・10)もあるが、確認できない。
なお明治三十九年一月には区内の北海演芸社から『演芸画報』が創刊され、二月に第二号が刊行されたようであるが、以降は明らかではない。