明治四十二年夏、区内有志の間で「東京音楽学校成績優等を以て卒業せし声楽家、器楽家」(北タイ 明42・7・3)を招き、地元の音楽家を加えた「大音楽会」の開催を企図したが、実現はみなかった。四十四年に至り、今度は区教育会が「教育上の諸般の設置」費用の足しにするためと「清新なる音楽の趣味普及の目的」(北タイ 明44・6・21)をもって、地元音楽家と東京から三人の音楽家を招いての音楽会を企画し、八月に二日間にわたって実行された。
東京から招かれた演奏家は東儀哲三郎(バイオリン、東京音楽学校講師)、小松耕輔(ピアノ、学習院助教授)、大和田愛羅(声楽、東京師範学校教諭)、村田みい子(琴、東京府立第三高等女学校教諭)の四人であったが、大和田はチェロ、ピアノも演奏したようである。曲目は比較的短いもの、あるいはソナタ等の一楽章だけというものが多い。しかし「べ氏作品第廿四の曲」(バイオリン・ソナタ第五番―春)は全曲演奏されたようである。その外ピアノ、バイオリン、チェロの三重奏でシューベルトの「軍隊行進曲」など、ピアノ独奏がメンデルスゾーンの「狩の歌」(無言歌集第一巻の内)、ウェーバー「舞踏への勧誘」など、バイオリン独奏はブルッフの「コル・ニドライ」など、独唱はシューベルトの歌曲等が演奏された。聴衆の反応を新聞は「初めて是等名人の演奏を耳にして、満場唯感に堪へずという風であった」(明44・8・17)と記し、各演奏についても最大の讃詞を呈している。おそらくこれが札幌における本格的な演奏会の最初ではなかったかと思われる。
区教育会主催の同種の音楽会は、その後一旦中絶したが、大正三年に再開され、同九年まで続いた。九年の第八回音楽会には札幌出身のアルト歌手相沢満寿子も出演している(北タイ 大9・7・24)。
このほか来札した音楽家の主なものとして、まず同年七月に行われた札幌音楽普及会主催による、東京音楽学校出身者で編成された混声合唱団の演奏会である。「尼港殉難者追悼」として開催され、指揮は舟橋栄吉、声楽家のほか、器楽としてピアノだけではなくオーボエ、バイオリン、チェロ等が紹介されている。また会前日(7・28)の新聞によれば、前記相沢がカルメンとなり、ビゼーの歌劇「カルメン」中、「カルメンの歌」を歌うことになっている。合唱としてはシューマンの「流浪の民」、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」中の「ハレルヤ・コーラス」等があった。また相沢は十二年七月に新進バイオリニストの高階哲夫らと音楽会を開き、これが契機となって高階は「時計台の鐘」を作曲した。さらに十一年にはソプラノ歌手三浦環の第一回帰朝音楽会も開催された。