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謡曲(邦楽)

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 謡曲が札幌で本格的に起こったのは、明治二十七年に炭礦鉄道会社の職員が観世流を教えたのが最初といわれる(道毎日 明34・3・9)。のち漸次人も増え、三十二年には二三、四人ほどになり、同年十一月に観世〓治が来札して指導にあたり一層の発展をみた。すなわち三十三年二月に謡曲会の同流の滔々会を結成して活動したが、ほどなく観世流北海道支部となったようである。三十四年中に会員百数人に達したため、三十五年に幹事を四人挙げ、会員を特別、通常、地方の三種とし、宅稽古、出稽古の日を定めるなど一層の拡充を図り、三十五年には観世会分教場も設けた。宝生流もこの時期には会が結成され、三十三年十一月には宝生流謡曲会秋期大会をかなり盛大に挙行している。三十五年頃には宝生流五雲会が結成された。
 これらの会は、それぞれに例会、素謡会、春・秋大会等を開催したが、三十五年十一月三日、天長節を期して観世・宝生両流の連合謡曲会を開催した。これは三十六年七月にも開催されたが、四十四年六月、十月には連合謡曲会が、四十五年一月、三月には観宝連合囃会が開催された新聞記事があり(北タイ 明45・1・14、3・21)、内容からみてもう少し早くから行われている可能性が強い。
 この間も両流は活動を続けたが、観世流では家元観世清廉一行二一人が、三十六年八月十四、十五両日札幌で能楽会を開催する記事が『北海タイムス』八月二日付で報道されている。四十二年には観世〓治を中心に北海能楽会が結成されたが、四十四年二月に解散し、すでに結成されていた「木の葉会」を中心とすることとした。また宝生流では謡曲研究の目的で、四十二年五月に翁会を結成した。

写真-11 豊平館で開かれた邦楽演奏会(大正14年)