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大挙伝道の展開

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 二十世紀初頭の二〇年のうち、前半すなわち三教会同の前年の明治四十四年(一九一一)までの一〇年間について、しばらくはプロテスタントの活動を中心に見ていこう。
 二十世紀の直前、明治三十一年に行われた伝道集会は、その盛況によって過去一〇年にわたる不振と沈静の時代がようやく克服されたとの実感を札幌の諸教会に抱かせた(第六編六章三節四参照)。そして三年後、「二十世紀大挙伝道」はさらに多くの求道者を教会に結びつけた。
 二十世紀大挙伝道とは、二十世紀初頭の数年間にわが国のプロテスタント諸教派が協同して行った一大伝道キャンペーンであった。諸教派は「我が国を基督に献げよ」を標語とした大挙伝道によってそれまでの不振を脱し、全国的に教勢を伸展させる機会を得た。特に都市の教会は大挙伝道の成果によって存立の基盤を確立し、これによって太平洋戦争前における教会の性格がかたちづくられたともいわれる。

写真-7 大挙伝道標語(北海教報第36号)

 大挙伝道の発端は、明治三十三年四月の第一〇回福音同盟会大会における決議であった。札幌でも福音同盟会に呼応して運動が起こされ、同年の年末には十九世紀紀念感謝演説会で運動のスタートが切られた。翌三十四年一月には実行委員会が組織された。第一次の集会(演説会)は六月二十四日から七月四日までのうちの一〇日間に行われた。各集会に先立って早朝と午後に祈禱会を持ってその日の準備を始め、さらに「基督教大挙伝道」と大書した大旗や高張提灯を掲げた広告隊を繰り出した。
(七月)二日(中略)六時半より中嶋遊園地より広告隊ハ出発して組合教会附近を広告す廻歩者四十一名(男二十一名女二十名)ハ実ニ勇ましく大旗高張を立て風琴ニ和して讃美の音声ハ市中ニ轟き人々をして異様の感を引き起さしめし者の如し
(大挙伝道札幌五教会運動記録)

 集会は区内五教会の会堂が交互に使用され、講師もほとんど各教会の教役者が交代で勤めた。一〇日間の集会の中には、約七〇〇人の聴衆を集めたこともあり、延べ三七〇〇人が参集し、新たに信仰を表明した人が一五〇人に達した。第二次としては、十一月に秋期大挙伝道集会を開いた。秋期伝道は信徒の信仰生活の充実を主眼に置き、六、七月の集会によって得た求道者のフォローを目標に据えていたようで、「今回は特に信徒求道者の信仰を一層鞏固にし尚基督教徒として円満ならしめんとの目的にて運動する事」(北海教報 第五四号)とした。この間、大挙伝道の一環としては、M・C・ハリス、奥野昌綱の来援、さらには内村鑑三の第一回札幌伝道のような各教会独自の伝道集会が行われ、二十世紀第一年は札幌においても伝道集会ラッシュの年であった。
 十二月十四日には大挙伝道感謝会が開かれ、札幌を中心とした一年間の運動が報告され、札幌の教役者が各地に派遣されて弁士を勤め集会を支援したことも明らかにされた。大挙伝道北海道第一区支部長の田中兎毛(とも)は、運動の成果を「第一諸教会及教役者間の一致結合の精神増加せし事、第二新に信者求道者を得たる外従来の信者の信仰復起せし事、第三社会一般の基督教に対する態度一変せし事等は著しき事にして明年又明後年益々進歩発達せしむべき事なり」(北海教報 第五六号)と総括した。大挙伝道によって、市民が再びキリスト教への関心を持ち始め、札幌の諸教会は今後の伝道活動に展望を持ち得たと言うのである。