まず組合教会では、三十四年一月の第六回総会で最重要の議題として自給問題が議せられ、「遂ひに断然本月より自給独立たることを決議しミッション併に宣教師に従来の厚誼を謝すること」(札幌組合基督教会略史)とした。美以教会は三十五年四月、第一九回日本年会で自給を試用として承認された。同年は前述のとおり「明年全く自給するに至らん」との見通しであったが、果たして翌三十六年の第二〇回年会では「一年前に於ては試験的のものなりし自給問題は今や其成功を証するに至れり」(同年会記録)と報告された。札幌聖公会は、三十四年に自給を決議した。「当教会は五月より自給する事に決し目下働きつゝある主任伝道師本田憲之氏を仮教師とする事を牧師俸給会社へ出願したり」(北海之光 第九四号)と伝えられた。ただ聖公会北海道地方部では、自給が教会の自立性をもたらし、聖公会の教職制度の特色である牧師任命制に影響を及ぼさないかと慎重な態度を取り、自給は大正九年まで持ち越された。
教会の自給、すなわち牧師の謝儀(俸給)、伝道費など経常の経費を自賄いして、教団や外国の宣教団(ミッション)からの補助を受けず、経済的自立を達成することは、わが国では教会としての重要な目標の一つであった。札幌の教会は、道内でもいち早く自給を達成し得る条件をもっていた。
ともあれ、この五教会は着実に教勢を拡大しつつあるように見えた。明治三十年に五教会が割拠して瓦解の危機さえ抱かれたのが(第六編六章三節三参照)、ここへ来て五教会が協同しつつ、それぞれ自立して成長する教会となった。三十九年の『福音新報』第五七二号の一文(小松武治「札幌の諸教会に学べ」)は、各教会の独立(自給)の達成と協同性の発揮の関係を、道外からの眼として次のように評価した。
札幌の諸教会は独立である。同地にて重もなる教会は組合、日基、美以、独立の四教会であるが、此等は悉く独立の経営を続けて今日に至り、会堂の建築より牧師の俸給及び月々の支出等一切会員各自の負担となって居る、既に維持上独立の基礎を据ゑたる結果は如何と云ふに、何れも自由にして寛容の精神を有し、宗派的の感情に駆られて反目衝突等の事毫末もなく、能く協同一致して基督の栄光の為めに働く事を主眼として居る。
さらに同年五月、第一二回福音同盟会大会が教派合同促進案を議決したことについて、この記者は、この議決が札幌の各教会では歓迎されているのみならず、「之が実行を謀らんと内々相談を持掛けて居る有様である」という。聖公会は別として、他の札幌の主要教会が教派合同への積極的な態度をとっていたのは、同年一月独立教会の総会が「現今日本ニアル最モ大ナル数教派合同シテ外国人ニ関係ナキ一大団体ヲ組織スル時機ノ到来ヲ待テ合同スル事」(同教会日記)と決議していることからも裏付けられよう。単立の独立教会でも教派合同に参加する用意がされていた。