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日露戦争前後のハリストス正教会

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 日本におけるハリストス正教会は二十世紀初頭前後、教勢を順調に伸展させていったといわれている。明治二十四年に東京神田駿河台に建てられた東京復活大聖堂(通称ニコライ堂)は、正教会の発展を目に見える形によって示そうとするものであった。明治三十四年当時、札幌の正教会もニコライ桜井宣次郎司祭の管轄、モイセイ下斗米貞五郎伝教者の指導で着実な歩みを続けていたという。同年の復活大祭は「例年に劣らざる盛会にて回家祈禱墓参等漸次ハニステアニン風の進歩を現せり、急激なる進歩は期せられざるも着実なる教役者の尽力によりて断えず新聴者あり」(正教新報 第四九四号)と報じられた。
 しかしこの時期、日露戦争の勃発で、ハリストス正教会はロシアとの関係が深かったため、官憲の監視下に置かれることが多かった。特に主教ニコライの去就が注目されたが、ニコライは信徒に対して、日本にいる正教徒の義務として日本の勝利のために祈ることを勧め、自らはその間ロシア人として公祈禱に加わらないことを表明した。函館山が要塞地帯であった函館では、司祭ら教役者が退去を命ぜられ、近傍の有川教会に移らざるを得なくなり、札幌の桜井司祭が函館を事実上管轄したこともあった。札幌での具体的な迫害の事実は記録として伝えられていないが、後述する区内キリスト教関係者を中心に組織して開催された日露戦争支援の音楽会などには、カトリックと同様に参加しなかったようである。
 戦後は再び教勢を回復した模様で、札幌でも明治四十三年度、桜井司祭管轄、伝教者セルギイ塩谷(しおのや)茂の担当の下で、現員二五〇人、受洗者四一人(小児二〇人を含む)を数える教会となっていた。この間、正教会全体では、明治三十九年ニコライが大主教に任ぜられたが、四十五年、東京で没したことがあり、正教会はまた新たな困難に直面することになる。