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ロシア革命とハリストス正教会

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 日本のハリストス正教会は、ニコライ大主教の死後、主教セルギイの指導の下に歩むことになった。札幌では引き続きニコライ桜井宣次郎司祭の管轄の下、直接には伝教者イグナティ高久義夫、次いで伝教者イオアン大木竹次郎(大正五年に輔祭に昇叙)が信徒の指導にあたっていた。この間大正二年には、家族の救霊のため五〇歳以上の信徒による老年会が結成された。その頃また、青年会も礼拝堂における聖務の補助、聖歌隊の練習、聖書の研究などを活動の目的として結成された。さらに豊平に教会員の共葬墓地を購入するなど、教会の内部が整えられていった。
 このような宣教の進展に再び打撃を与えたのは、ロシア革命の勃発とソビエト政権の成立であった。ロシアの正教会が帝政ロシアの時代に与えられていた保護を失い、国家からまったく分離させられた。さらに革命の混乱のなかで、歴史の浅い日本の教会は、ロシアの母教会との関連を断たれたことから、精神的・経済的自立を迫られる結果となった。このためロシア正教会との関係が充分整理されないまま、大正八年の公会では、独自の「日本ハリストス正教会憲法」を採択した。なお、この公会で報告された札幌正教会の信徒数は九九戸、三四四人であった。また、札幌は教役者の生活を支え得る自給教会の一つに数えられていた。
 正教会全体の再度の困難のなかで、札幌の正教会は前進をめざし、同教会が中心となって同年六月『北海の(之)正教』を創刊した。同紙の契機となったのは正教会憲法制定のために開催された公会で、これに出席した北海道代議員の懇談の席であったという。同紙はその創刊の趣旨を次のように述べている。
北海道に於ける各正教会其月々にあった事の記事報告を掲載して連絡を慮って、相愛の実を現し、また教役者の不在な教会の信徒や、各地に散在して居る信徒教養に資すると共に、歩一歩づゝ醇正なる信仰に進む研究もし、或は教役者相互が提携して、教会の振起を計りそして教勢発展に一致の行動を取って堅実な有形無形の教会の基礎を置きたい為である
(北海の正教 第一巻第一号)


写真-12 『北海の正教』(第1巻第1号 大8.6.15)

 同紙は教役者不在の地での信仰の糧(かて)となり、あわせて各地の教会の連絡を行うのを発刊の趣旨として掲げており、信徒の投書を積極的に掲載した。正教会が置かれていた困難な状況もあって、発刊当初の内容には「布教方法の改造」や統一教養法(宗教教育)の確立による「独立的信仰」の要請などが指摘され(第二巻第四号 統一的教養など)、教役者もまた現代の思想的・科学的進歩を吸収する必要がある(第二巻第七号 現代の宗教難)との訴えもあった。また正教会が「社会と懸隔しつつ」あるかに見えるのは、財政問題以上に重大である(第三巻第六号)との発言もあらわれた。記事のなかには、プロテスタントとの交流のあったことが僅かながら窺える。
 ロシア革命に端を発した正教会の財政独立問題は、「信徒の信仰上に動揺を来したる如く」と言われ、またこれを契機に財政、布教方法、教役者のあり方、教会生活のあり方などにさまざまな問題の提起があった。しかし一方では、数年にして「独立的信仰の立脚点を自覚したる地方信徒」によって、かえって「正教信徒の信念及び正教会の信条又はその布教方法が、如何に堅実なりしかを証して余りある」ことを確信した(大正十年 第三巻第一号 迎祭感想)とする評価もあった。こうして大正十一年、大木輔祭が担当する札幌正教会の信徒は四二二人となっていた。