この時期に皇室崇拝、国体観念の通路として神社は国民教化の上で最重要部の位置を与えられ、行政・社会の末端まで国家神道は強化され浸透されていった。その契機となったのが大正十二年(一九二三)十一月十日に発布された「国民精神作興ニ関スル詔書」(作興詔書)である。この詔書の意図は、欧米の新思想を受容した各種の運動(普選・労働・農民・婦人運動など)を「軽佻詭激ノ風」とみて体制的な危機感を抱いた政府が、国民道徳の主軸を「皇祖皇宗ノ遺訓」に求め人心の粛正を図ったものであった。
北海道庁では十三年三月に北海道精神作興会を設立し、各町村にも分会の設置を指導して教化網の整備が行われていった。十三年以降、札幌市が主催して国民精神作興の講演会がしばしば開催されていたが、大正十五年に札幌敬神講社が設立されたのも(後述)、こうした敬神思想強化のあらわれでもある。
先の作興詔書の趣旨には皇室崇拝とともに祖先崇拝も加えられており、普及・教化運動に教派神道、仏教も参加して大規模な運動を展開し、教化、動員の面で重要な役割を果たしていたが、最も期待されていたのはやはり国家神道の担い手である神社であったのである。十三年三月二十八日に開催された北海道神職会代議員大会では、「敬神尊祖の大義は我国民精神の淵源にして、国体の精華亦実に茲に存す。苟も国運の伸張を期し立国の大本を鞏固ならしめんとせば、神社の崇敬を益々旺ならしめざる可からず」「国民崇敬の中心たる神社を崇厳にし国本の大道を照述し以て聖旨に奉答せんことを期す」と宣言し(北海道神職会会報 第一六号 大13)、詔書の徹底普及が図られることになった。