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明治天皇の合祀と神宮昇格

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 札幌神社に明治天皇を合祀し神宮へ昇格させる運動は、昭和九年から行われるようになる。道議会にて池田慎三郎は神宮昇格を建議し、これが満場一致で議決されたことが発端となる。新聞報道では道庁社寺兵事課長が上京して、「極力関係方面の涼解に努めているが順調なる進捗をみている模様で或は案外早く実現するのではないか」と当初は楽観視されていた(北タイ 昭9・5・22)。その後、池田は十一年十二月三日の道議会にても札幌神社の改称、昇格を当時の道庁長官であった池田清に要望し、池田長官も「及ばずながら努力する」と答弁しており(北海道議会史 第四巻 昭38)、この問題は札幌神社とともに道庁も積極的に運動を進めていた。
 昭和十一年十二月に札幌神社の高松四郎宮司は道庁と協議を行い、翌十二年一月に内務省へ「明治天皇増祀願」が提出された。それによると北海道開拓は明治天皇の「叡慮」によるものであり、明治天皇を合祀することは、
天皇ノ叡慮ヲ追懐奉戴シテ感奮興起ノ念ヲ新ニシ、拓殖ノ事業亦大ニ挙リ申可、更ニ現下ノ国際情勢ニ鑑ミ候テ、国家的重要性ヲ加ヘシ北海道ノ思想、産業両方面ニ与フル影響亦頗ル偉大ナルコトト奉存候。
(北海道神宮史 上巻)

と、北海道への影響が大きいことをあげていた。これについて池田清も、「三百万道民と共に天皇の御聖徳を永遠に瞻仰し、敬神尊皇の大義を振作したい」と述べ(北タイ 昭12・1・9)、道庁と一体になって内務省への働きかけが行われていた。高松宮司は七月にも内務省へ陳情を行い、また国会でも合祀が建議案として採択されていたが、内務省には「内地において明治神宮以外に明治天皇を奉祀することを許さざる」との内規があり(北海道神宮史 上巻)、許可は難しい状況であった。
 一方で本道選出の国会議員により明治天皇合祀の件を、昭和十二年より十六年まで衆議院建議委員会にて建議され可決をみていた。しかし戦局の激化によりこの運動はいったん終息することになる。