昭和十一年十二月に札幌神社の高松四郎宮司は道庁と協議を行い、翌十二年一月に内務省へ「明治天皇増祀願」が提出された。それによると北海道開拓は明治天皇の「叡慮」によるものであり、明治天皇を合祀することは、
天皇ノ叡慮ヲ追懐奉戴シテ感奮興起ノ念ヲ新ニシ、拓殖ノ事業亦大ニ挙リ申可、更ニ現下ノ国際情勢ニ鑑ミ候テ、国家的重要性ヲ加ヘシ北海道ノ思想、産業両方面ニ与フル影響亦頗ル偉大ナルコトト奉存候。
(北海道神宮史 上巻)
と、北海道への影響が大きいことをあげていた。これについて池田清も、「三百万道民と共に天皇の御聖徳を永遠に瞻仰し、敬神尊皇の大義を振作したい」と述べ(北タイ 昭12・1・9)、道庁と一体になって内務省への働きかけが行われていた。高松宮司は七月にも内務省へ陳情を行い、また国会でも合祀が建議案として採択されていたが、内務省には「内地において明治神宮以外に明治天皇を奉祀することを許さざる」との内規があり(北海道神宮史 上巻)、許可は難しい状況であった。
一方で本道選出の国会議員により明治天皇合祀の件を、昭和十二年より十六年まで衆議院建議委員会にて建議され可決をみていた。しかし戦局の激化によりこの運動はいったん終息することになる。