写真-5 大正12年頃から急速に市街化が進んだ琴似停車場通
こうした趨勢は昭和に入っても続き、「停車場通から国道筋へかけて新築家屋が相次ぐ状態」であり、これらは札幌通勤のサラリーマンであり、琴似駅は通勤・通学の乗降客で「押分られぬ雑踏を呈する」という混雑ぶりであったし、札幌への定期券利用者は約三〇〇人とされていた(北タイ 昭2・6・6)。当時の琴似駅の乗降客は、あわせて約五六万人であった。昭和三年には宅地分譲の新聞広告もみられるようになり、急激な児童増加により小学校の学級増設と増築も必要になってきていた。
商店と住宅で密集し始めた川添、八軒などの市街地は、昭和七年に二〇〇戸を初めて超えて戸数二二四戸、一二〇二人となった。その後十年に四九五戸、二五六六人、十五年には六七〇戸、三四四八人と急速に市街地が発展と拡大を続けていくようになり、十七年二月には琴似村も町制を施行することになるのである。
一方で琴似村は鉄道沿線の工業地としても注目され、昭和七年頃より諸工場の進出が相次いでいた。札幌焼酎、三星薬品、北海製紙、浅野セメントの会社・工場、本多鉄工場、北海道信用購買販売組合聯合会除虫菊工場などであり、村内所在の工場は二二を数えていた。十五年の村内職業別戸数をみると農業八三五戸、工業一三八戸、商業一九五戸、公務自由業二六九戸、「其ノ他ノ有業者」三五九戸などとなっており(総数一八四九戸、昭和十六年琴似村村勢一班)、都市近郊型の村へと変貌していたことがわかるであろう。