大正はじめからデモンストレーションが繰り返された航空事業は、大正も後半に入ると定期航空路線の選定や航空機事業の構想が行われ、実施に移されていく。
札幌をルートに入れた航空機事業は、大正九年五月頃に一時的に新聞報道された。これは、日本航空運輸株式会社が創立されることになり、東京大阪間の定期郵便飛行が計画された際、将来東京仙台間、仙台札幌間の輸送も計画しているというものである(北タイ 大9・5・12)。この頃、民間航空輸送会社は、日本航空輸送研究所(大11・6設立)、東西定期航空会(大12・1設立)、日本航空株式会社(大12・4設立)があったが(近代日本交通史)、上記の計画は東西定期航空会のものと推察される。
大正後半に、北海タイムス社では定期航空事業をめざし、札幌飛行場設置計画を進めていたが、なかなか実現しなかった(平木国夫 日本ヒコーキ物語 北海道篇)。その状況の中で大正十五年七月、小樽新聞社が社告で「北海道定期航空協会設立計画と趣旨会則」を発表して、定期航空事業に乗り出した。しかし小樽新聞社の場合、東京~札幌間の縦断飛行を試みたり、旭川へ飛来するなど宣伝につとめたが(たとえば樽新 大15・7・7、20、21、30、8・1夕、2、3夕、3、6夕等々)、続かなかった。