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定期航空路線の開設

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 各地を結ぶ定期航空事業は、昭和三年十月日本航空輸送株式会社が、半官半民で設立されてから様子が変わる。札幌でもこの会社の東京大連間、大阪上海間の開設計画について、「我航空事業も一大飛躍の時代」という見出しで紹介している(北タイ 昭4・1・3)。そしてこの会社は、上記三航空会社やその他の航空会社などを合併したり、路線の権利や機材・乗員の譲渡をうけて事業を拡張した(近代日本交通史)。その後六年になると、札幌逓信局が臨時航空調査部を設けて、道内の航空路線の開拓について調査し、東京札幌間、札幌豊原間、新潟札幌間の三路線の開設を本省に申請した(北タイ 昭6・1・28)。七年には不況の農村救済事業としての土木事業を起こすため、逓信省では東京札幌間定期航空路の準備として、予算総額二五五万円で札幌・青森・仙台に飛行場を設けるなどの事業執行を決定した(北タイ 昭7・7・14夕、14)。
 札幌飛行場は、一時軽川付近への誘致もあったが、北二四~二六条の八万坪を中心に、周辺の個人所有地を買収して建設地とした(北タイ 昭7・9・16、20、22、10・27、11・2)。八年八月十日には札幌飛行場竣工式が行われた(北タイ 昭8・8・10)。ところが定期航空路開設が遅れているうちに、飛行場敷地の地盤が泥炭であるため、滑走路の舗装の必要性が指摘された(北タイ 昭11・5・13、20)。

写真-12 昭和12年,定期航空開始の頃の札幌飛行場

 この定期航空事業は、十一年になって東京札幌間、札幌旭川間、札幌帯広間の試験を兼ねた御用通信飛行を実施した(北タイ 昭11・7・17、9・5、10・11など)。そして十二年四月一日から定期航空が開始された。定期航空開始一カ月の成績は、欠航回数上り三回、下り四回。乗客は上り合計五八人、下り合計三二人。貨物上り二一箇、下り二四箇、郵便行囊上り一三五箇、下り調査中であった(北タイ 昭12・5・2)。
 この後札幌旭川間、札幌帯広間、札幌釧路間などの整備がなされる方針なども示され(北タイ 昭13・3・1、6・1、14・10・15、15・1・1など)、各地の飛行場の候補地の選定や建設が行われた。しかし日華事変の開始以来、ガソリン節約のため民間航空機の制限が行われるようになった。十四年の犠牲線(運航回数の減少または一時休止となる)に名を連ねていた札幌東京間は幸いにも指定を免れ(北タイ 昭13・8・4)、逆に幹線に昇格して大型優秀航空機を使用することになった(北タイ 昭15・1・12)。だが十五年の定期航空は、冬季の休止の後六月十五日に再開したが、七月九日から休止になり、十月一日には廃止が決定した(北タイ 昭15・10・1)。