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卸売価格の推移

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 図1に農水産品卸売価格を掲げた。農水産品は価格変動が激しかった。一般物価に影響するところの大きい米価は、大正十四年(一九二五)十月までは上昇を続け、それ以後ゆるやかな下落を続けて、昭和五年(一九三〇)十月には前月の二八円三一銭から二二円三〇銭へ、さらに十一月には一七円四二銭へと激落した。六年には一〇円台で推移し、七年上半期からようやく上昇を始めた。インフレが懸念された十一、十二年頃でも大正十四年の水準は回復しなかった。一九二〇年代には、戦後恐慌(大9・3~)、震災恐慌(大12・9~)、金融恐慌(昭2・3~)と恐慌が続き、昭和四年以降の世界恐慌(昭和恐慌)へと突入していく。昭和恐慌の暴落前水準たる二八円を安定して超えるのは、九年九月以降であった。昭和恐慌期の価格下落が長期にわたったことがわかる。

図-1 札幌市卸売価格〔農水産品〕(札幌商工会議所『統計年報』,同『月報』より作成)

 大豆は、昭和四年上半期まで七円前後で推移していたが、十一月に六円台に、五年一月に五円台に、十月に三円台に落ち、安定して七円を超えるのは十年二月以降であった。味噌、醤油原料として六割は内地府県に移出されていたので(北海道庁経済部商工課 北海道の商工要覧 昭9)、国内景気の影響を受けたものと思われる。
 青豌豆は、全般に価格変動が激しいが、大正十二年下半期から翌年上半期にかけて一〇円台を割り、以後回復した後昭和三年十月からふたたび一〇円台を割り、四年十一月には六円台、十二月には五円台に下落、世界恐慌前水準たる八円を安定して超えるのは七年九月以降であった。これは、青豌豆が主に英国、米国向けの輸出品であるために、一九二〇年代の世界農業不況の影響を早期に受けつつ、昭和七年からの円為替下落による輸出回復のために価格が早期に持ち直したものと考えられる。
 燕麦は、やはり大正十二年下半期から翌年上半期にかけて低落した後、いったん上昇し、ふたたび昭和二年下半期から三年末にかけて低落・低迷する。昭和恐慌期の下落は、五年に顕著で、八年には一円台にまで下がった。恐慌前の七円水準を回復するのは、十二年一月である。これは、燕麦が軍馬の飼料として陸軍糧秣廠が大口需要者であったために、国内景気・物価変動の影響を受けつつ、準戦時体制下に一躍急騰することになったものと考えられる。
 玉葱は、季節的変動が激しいが、昭和恐慌前は一般に二円から五円くらいの間を上下しており、昭和恐慌期には一円~二円で推移した。七年十一月から三円を超え、恐慌から回復したかのようにみえるが、九年九月にふたたび一円台に暴落し、一円割れを演じた後に十一年以降上昇する。生産品の約七割が輸移出されたが、海外輸出よりも内地移出が多かった(同前)。
 身欠鰊は、季節変動が激しい商品だが、昭和恐慌前には一〇円を超えて変動することが多かった。一〇円水準を超えるのは、昭和十年四月以降である。また、十二年下半期に極端な高騰をみせたことも特徴である。販路は内地府県が主であった。
 このように、農水産品は、国内外の景気変動の影響を強く受け、激しい価格変動を見せたのである。また、昭和恐慌時の価格下落・低迷が長期にわたったことは共通するが、下落および回復の時期は、それぞれの商品により異なっていた。
 次に、図2により工産品価格を検討しよう。工産品は、特に小麦粉、ビール、過燐酸石灰の三つはカルテルが存在したために、価格変動が抑えられている。道産小麦粉は、日本製粉株式会社小樽・札幌工場により生産された。ビールはもちろん大日本麦酒株式会社札幌支店工場の産である。これに対して、精製糖、澱粉は変動がみられた。図示した精製糖は、内地から移入した甘蔗(さとうきび)原料のものである。一九二〇年代を通じて三〇円台から二〇円台に低落した。昭和六年三月から一〇円台にまで落ち込み、二〇円台を回復したのは七年八月であった。砂糖は、国際商品であり、精製糖は工業製品であるが、原料たる甘蔗、甜菜という農産品の価格に規定された。この時期には、主な甘蔗産出国は生産過剰による価格低落に悩まされ、世界農業問題の大きな構成要素をなしていた。

図-2 札幌市卸売価格〔工産品〕(札幌商工会議所『統計年報』,同『月報』より作成)

 澱粉は、昭和恐慌までは七円~一〇円で推移し、五年に四円台まで低落し、七年二月から七円台を回復するものの、ふたたび八年十月には七円台を割った。これが回復するのは、十年二月であった。馬鈴薯を原料とし、製品の過半は、内地府県に移出された(同前)。
 このように工産品は、大企業・大工場の産品は価格変動が抑えられていたが、農業恐慌の影響を受けたものもあった。