昭和十四年十月のいわゆる九・一八価格ストップ令では、生鮮食料品が除外されていた。そのために、これらの商品の価格は上昇を続けたが、その対策としては、流通組織・機構の抜本的な改善が必要であった。札幌には、水産物については二つの卸売市場が存在したが、十四年四月に、両市場が共同で、仲買人への歩戻金を四分から三分に削ろうとして、紛議を巻き起こしている(北タイ 昭14・4・16)。仲買人たちは、十二月に札幌海産物卸商業組合を結成し、市場での発言力を高めようとした(北タイ 昭14・12・13)。札幌卸売市場株式会社は、社長に取締役から高橋松吉が昇任し、市場仲買人をすべて株主にし、名称も札幌魚卸売市場と改めた(北タイ 昭15・3・27)。魚の円滑な供給をめざしてせり方法も改革され、「最高価格に達した場合はセリを止めて小売人を八組に分けて抽箋して渡すことにしました」という(北タイ 昭15・8・2夕)。
なお、並存を続けた札幌(魚)卸売市場と札幌鱗市場は、新体制の趣旨に則り、十五年十一月に合併した(北タイ 昭15・11・7)。それでも鮮魚の供給は意の如くならず、十七年には、卸売会社一元化案が札幌市から提起される。これは、既存の市場会社、卸売業者の会社をすべて解散した上で、設立するものとされた(北タイ 昭17・4・28)。準備委員の選出、市場、卸売商の実績決定と順調に進んだかにみえたが、新会社の株式引受数をめぐって関係者に対立が生じ、結局市の主導により、札幌鮮魚配給会社が資本金一九万五〇〇〇円で設立され、社長には高橋松吉、専務取締役西出久太郎らを選出した(北タイ 昭17・10・1)。
同じ頃、円山朝市にも改組の動きがあった。組織としては、藻岩村蔬菜生産組合が経営していたが、同組合は任意組合であり、法的基盤が弱かった。しかも仲買人、小売商は十二年十月に円山朝市仲買人組合を結成し、市場での小売をやめるよう運動してきた(北タイ 昭12・12・17)。そして、これに対抗すべく生産者側は、保証責任円山蔬菜販売利用組合を設立し、生産組合をこれに改組した(北タイ 昭14・2・24、4・17)。