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製粉

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 製粉では、まず旧札幌製粉株式会社工場が日本製粉札幌工場として操業していた。大正十五年には、北海道需要約一二〇万袋に対し札幌、小樽両工場合わせて八〇万袋を供給していたという(樽新 大15・5・9)。しかし八月に不況対策として各社の生産制限協定が締結され、札幌工場は当分の間運転休止とされた(日本製粉株式会社 九十年史)。
 表50の製粉生産額は、日本製粉札幌工場が休業していた昭和三~十二年にも増大している。大正十四年末の札幌市内の製粉業者は一〇軒、職工総数は七四人であった。日本製粉札幌工場(北5西7、三二人)、鈴木製粉所(北2東3、二五人)が職工五人以上で、他はすべて四人以下の零細経営であった(第一二回統計年報)。昭和九~十二年には製粉生産額が激増した。十二年の製粉業者と営業収益税納税額は、鈴木製粉(鈴木武助、一一三円)、株式会社塚本製粉所(九二円一〇銭)、近藤勇二(七五円五六銭)、黒澤敬治(二九円八〇銭)、川崎米吉(一七円六〇銭)となっていた(札幌商工会議所 札幌商工人名録 昭12)。黒澤を除き大正十四年に操業していた業者である。
 この時期には小麦国産化が達成され、対中国輸出などで小麦粉需要も拡大していた。日本製粉は十四年九月から札幌工場の操業を再開した。生産能力は日産四〇〇バーレルであった。