札幌におけるゴム工業の初期の段階は、地下足袋、巻上げゴム底の製造、ゴム靴の修繕に過ぎなかったが、やがて技術・製品の改良により胴付、水中、水田、一般の長靴類、ボッコ靴、炭鉱靴、スキー靴、合羽、スリッパ、オーバーシューズなどの多品種にわたるゴム製品を製造するようになる。ただ主要製品は長靴、短靴のゴム靴であった。札幌では、大正二年六月に大矢政次郎が創業した大矢ゴム工業所(豊平4―5)が早く、続いて十年八月に天地安五郎が北都ゴム工業所(南5西5)を創設していた。北都ゴムでは十一年にゴム長靴の生産を開始し、これがヒット商品となってゴム工業の飛躍的な発展を導くことになる。北都ゴムでは十四年七月に白石町に新工場を設置していたが、十三年五月に戸田外吉による拓殖ゴム工業所(豊平2―3)、十四年九月に北洋ゴム工業所(豊平4―5)が創設され、昭和に入ると諸工場の進出が相次ぎ、ゴム工業は目覚ましい発展を遂げるようになる。すなわち、昭和二年三月に常磐ゴム工業所(豊平2―6)、六月に三共ゴム製造所(白石7―3)、三年七月に佐々木ゴム工業所(豊平2―6)、七年十月には北門ゴム工業所(北1東2、工場は上白石)、九年七月に札幌ゴム工業所(豊平4―5)、十年五月に協和ゴム工業所(豊平4―5)、十一年三月に大同ゴム工業所(豊平4―5)が創立されていく。昭和初期には北海道製靴(南3東2)も創業していた。これらの相次ぐ工場の創業にともない工産額も大幅に伸び、昭和三年に約三五万円であったものが、九年には倍の七一万円となっている(札幌商工会議所統計年報)。
以上の工場のうち、札幌ゴムは昭和十年十二月に解散となり、十一年に大矢ゴムは三共ゴムに買収され、北都ゴムは工業組合に未加入のために原料が入手できず十四年六月に工場を閉鎖しており、景気の変動や配給統制による盛衰も多く、十六年の『全国工場通覧』によると、札幌でのゴム靴製造業として常盤ゴム、大同ゴム、拓殖ゴム、協和ゴム、北門ゴムの五社が記載されているのみである。その後、ゴム工業所は十六年から十九年にかけて企業整備により拓殖ゴムを改組した帝国ゴム、及び三共ゴム、北門ゴムの三社に統合となる。そして十九年に日本ゴム工業が三共ゴムを買収し札幌工場を設置している。日本ゴムに勤務した女工の回想によると、工場には三〇〇人以上もの工員がおり、「鉄の作業板の前に、朝座ると帰るまで同し場所で鋏と包丁と手ミシン等の作業道具を並べ、長靴を作るのに型から出来上がるまですべて作業を一人でやった」ということであり(白石歴史ものがたり 昭53)、いまだすべてが手作業で分業化も行われていない段階であった。
組合としては、昭和三年に札幌護謨工業者共立会が七工場により創設されていたが、九年三月一日に札幌護謨工業組合が設立認可となり同月十二日に創立されている。十二年末の組合員は一二であった(日本ゴム工業組合史)。