明治時代から鉱区が設定されていた手稲鉱山では、昭和三年広瀬省三郎が鉱業権を入手した。広瀬はこの鉱山を有望と判断し、道路や事務所の建設を行い、試掘を始めた。ところが資金繰りの関係で鉱業権の七割を引き渡して共有にしていた山崎幸輔が、昭和四年広瀬に対して訴訟を起こした。
広瀬は山崎に悲観的な報告をして、残る権利を他へ委譲するよう勧誘していながら、一方で新道や事務所を設置するなどしていた。この様子を見て、山崎はその有望であることを悟った。ところが広瀬は自分の策略が露見したことを知り、山崎には無断で小西繁尾と高木茂に名義の切替えを行って、時価三〇万円以上と見積もられるものを、わずか三〇〇〇円で譲渡した。そのため山崎の取り分は九〇〇円となり、不満である山崎が訴訟を起こしたのである。この行方は不明であるが、文字どおりの山師たちの利権争いである(北タイ 昭4・11・8)。
この広瀬が鉱業権の一部を入手したのは、昭和三年十月である。四年になると黄金沢、滝の沢、三山観音沢の探鉱を実施した。六年からは選鉱場を建設して選鉱を行っていたが、成績は良くなかった。七年には選鉱場の運転を中止し、金の騰貴と政府による産金奨励の状況であったので、三山第三坑の鉱石を小坂鉱山へ販売していた。このお陰で営業は好転した。
この間に三山坑と黄金沢坑の探鉱を完了して、両者を藤田鉱業株式会社の経営に委託した。広瀬はさらに万能沢鉱を開発し、自ら経営して藤田鉱業の小坂鉱山に売鉱した。広瀬は六~九年に金銀銅を主に採掘したようだが、その鉱産量は、六年三五トン、七年三四二八トン、八年一万五七三〇トン、九年三万三八六三トンであった。
広瀬の鉱山経営は、十年には三菱鉱業に二〇〇万円で買収され、十二月二十日から三菱の鉱山として営業を開始した。さらに十三年には輪西鉱山株式会社から、手稲鉱山に隣接する鉱区である輪西手稲鉱山を二四万円で買収した。その後、国策による産金奨励や金属増産運動などで生産量は順調に伸び、産金量は十五年に一五三六・三キログラムで全国二位、三菱全体の四一・八パーセントを占めた。十六年には一六五〇・五キログラムで全国三位・全道で二位、三菱の三三・二パーセントを占めた。十七年一二三二・一キログラムで三菱の二六・六パーセント、十八年には一一五二・一キログラム、三菱の四〇・四パーセントを占めていた。
しかし昭和十八年には政府の金山整理政策で、金山としての操業を停止し、銅山中心に転換した(手稲鉱業所 手稲鉱山史、浅田政弘 手稲鉱山について 札幌の歴史29号)。