ビューア該当ページ

全協諸事件

615 ~ 616 / 1147ページ
 北海道・樺太を管轄地域とする札幌控訴院では、昭和七年(一九三二)上半期の管内「社会運動情勢」をまとめるなかで、「共産主義運動」について次のように述べている。
当管内ニ於テハ共産主義運動数回台頭スルモ、同一系統ニ属スルカ又相互ノ間ニ連絡アリシ為メ、早期ニ之レヲ発見セラレ其ノ都度徹底的検挙ヲ見極左運動ヲ一掃シ得タリ。然レドモ未ダ以テ極左分子ヲ掃討シ得タルモノニ非ズシテ却テ益々地下行動ヲ執ラシメ、潜行的運動ヲ為ス傾向アルモノヽ如ク将来ハ楽観ヲ許サズ。而シテ右傾向ハ自然彼等ヲシテ表面極左清算ヲ標榜シツヽ内実ハ各種ノ合法舞台ヲ利用シテ大衆ノ意識化ヲ企テシムルコトヽモナリ、従テ将来ノプロレタリア文化運動ノ如キハ軽視スベカラザルモノト謂フベシ。
(司法省 思想研究資料 第三三輯 昭7・10)

 また、昭和九年五月の思想事務家会同で札幌控訴院国分友治検事は「将来に於ても全協の組織活動に相当注意を要する、殊に炭坑及軍需品製造工場に対する組織活動には十分の警戒を要する」(思想研究資料特輯 第一六号 昭9・10)と報告している。こうした当局者の言にあるように、三・一五と四・一六の両事件により北海道の共産党組織は「一掃」させられた結果、その後は治安維持法の目的遂行罪を活用して、全協の左翼労働運動に対する弾圧が繰り返された。その弾圧は、「運動漸次熾烈化し本年一月頃に至り札幌、函館、小樽等の地方に於ける組織確立せる哉の模様ありしのみならず之れが推移に委する時は其の組織全道に及ばんとするの実情に鑑み」(内務省警保局 特高月報 昭8・6)という予防的な取締であった。札幌関係では昭和五年の全協一二・一事件に始まり、六年の全協九・二九事件、八年の全協四・二五事件、九年の全協五・四事件、十年の全協七・一〇事件と続く。この最後の全協七・一〇事件により取締当局は「本道ノ共産主義運動ノ組織ハ全ク潰滅」(本道ニ於ケル最近ノ極左運動概況 昭11・12)と認識した。それは、全国的な共産党組織の解体と軌を一にしていた。

写真-3 「札幌署で押収した証拠品の山」(樽新 昭8.11.4号外)