昭和六年頃から進められた「転向」政策の延長線上に保護観察制度が構想された。そして、二度の治安維持法「改正」失敗を経て、十一年五月、思想犯保護観察法が公布され、「本人ヲ保護シテ更ニ罪ヲ犯スノ危険ヲ防止スル為其ノ思想及行動ヲ観察スル」(第二条)こととなった。施行とともに全国に保護観察所が設置され、
札幌では苗穂に置かれた(管轄区域は函館保護観察所管轄区域を除く
北海道全部)。開所以来、十六年三月までに二一四人(更新者を含む)を保護観察に付している(司法省 保護観察所官制中改正ニ関スル資料 昭16・6)。
札幌控訴院検事から転じた所長
相墨伝三郎は、「一年を経ての感想」(昭徳会報 昭12・11)のなかで、「開庁の初めには門前雀羅を張らうとした当初も、被保護者の往来頻繁となり、転向者の中には製鉄所の模範職工として又は店舗の模範店員として背後から来る転向者の就職の道を開拓するものもあり、教壇に復職して日本精神に目醒めた教育及研究に邁進する者もあり」と自賛するが、実際には「保護」よりも再犯防止の「観察」に比重がおかれており、特高警察によるものとの二重の監視となった。定期的に被保護者と面接し、「心境変化ノ有無」を調査し「思想ノ善導」にあたる保護司としては、観察所の専任のほか、警察部特高課長、
札幌署特高主任、北大学生主事らが嘱託となっていた。「個別輔導」とされるもののうち、就職斡旋・生活扶助などもあるが、重点は保護司による「出張観察」にあった。保護観察所の外郭団体として十四年十二月には思想犯釈放者の保護を目的に尚和会が設立された。
写真-5 札幌保護観察所附属向上寮(樽新 昭13.3.18)