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友愛会札幌支部の結成と解消

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 労使協調を掲げて組織された友愛会は、札幌にも三つの支部を組織した。ひとつは鉄道工場の労働者の組織であり(大5・11・3支部昇格)、ひとつは自動車運転手などの半自営労働者の組織で、もうひとつは職人親方の集まりであった。しかし、友愛会が労働総同盟と改組され、組織のなかに労使協調路線に反対する労働者が増加してくると、支部の内部は混乱してきた。大正八年四月一日、錦座において友愛会各支部の合同労働者大会が開かれ、治安警察法改正の決議を行った。その後、ある新聞社が三支部を統一した友愛会支部を組織しようとして、十月三十一日に時計台で新支部発会式を開催した(北タイ 大8・11・1)が、意見が対立し、式は解散となり、どの支部も活動不能となってしまった。鉄道工場労働者の多くは、大正九年一月に労友会に参加してしまった。
 大正十二年五月、総同盟系と称する札幌労働組合が組織されたが、有名無実の組織にすぎなかった。これより早く、十一年五月に札幌労働自由団が組織されていたが、これは夕張炭鉱の争議で解雇された人々の扶助組織であった。アナキストが札幌に流れてきて、労働組合と称する団体をいくつも結成したが、それは「リヤク」(寄付強要)のための組織であった。十四年夏、北海道、樺太を荒し廻った大沼渉らの監獄部屋打破期成同盟も、やったことは「リヤク」であった。六月十一日に麦酒会社で「リヤク」をやり、札幌警察署に検挙されている。十五年九月十六日、札幌に全国からアナキストが集まり、岩佐作太郎大沼渉窪田節次郎らが総同盟や評議会の中央集権主義を批判した(北タイ 大15・9・17)。