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治安維持法制定反対運動と普通選挙要求運動

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 米騒動後、全国的に社会主義運動がさかんとなり、政府は社会主義者を取り締まるため、大正十一年三月、過激社会運動取締法案を提出した。この法案は貴族院で可決されたが、衆議院では審議未了となった。これは、各方面、各地で反対運動が起こった結果であった。札幌においても、札幌雄弁会の進歩派が反対運動を展開した。一方、普通選挙運動が広汎に起こり、札幌においてもいろいろな団体が普通選挙を求めて運動を起こした。政府は大正十四年三月、普通選挙法を公布し、同時に治安維持法を公布した。
 過激社会運動取締法案に反対した札幌雄弁会進歩派は、普通選挙の実施を喜び、祝賀の市民大会の中心となったが、治安維持法についての反対運動を進めなかった。
 普通選挙に備えて結成されていた政治研究会は、札幌知識層を中心に支部結成を進めた。十四年四月、高野精一札幌雄弁会進歩派と、北大の社会経済研究会の学生が中心になり、少数の労働者を含めて、政治研究会北海道支部が結成された。支部は五月八日、時計台大山郁夫中沢弁次郎の演説会を開催し、五〇〇人の市民を集めることができた。大山は、無産政党が人類愛を基礎とした政党であることを述べ、レーニンの「凡の人がパンを持つに非ざれば一人の人も菓子を持つべからず」を無産政党の倫理的基礎であると力説した(北タイ 大14・5・10)。
 十四年秋、農民労働党の結成準備が進められ、札幌にも賛同する者があったが、この党は十二月一日に結社禁止になってしまった。アナキストだった秋葉安市(のち安一)は、農民労働党を禁止したことを政府の愚行と批判した。
 その後十五年三月五日、労働農民党が左翼労働組合を排除して結成された。札幌合同労働組合は、門戸開放運動(左翼労働組合排除反対運動)に加わった。