札幌の花柳界で働く芸妓、酌婦、雇女と呼ばれる女性たちが数多く存在した。大正十一年から昭和十二年までの芸妓数等は、表16に示したとおりである。芸妓数は昭和元年に七二二人ともっとも多く、以後四、五百人を維持している。芸妓揚代金や一日平均収入をみると、大正十一年をピークに、翌年からは極端に減少し、昭和の不況期にはその影響をもろに受けているのがわかる。札幌の場合、大正十四年一月二十五日、札幌、睦、美中、中央、いさみの五見番からなる札幌見番業組合を設立し(北タイ 大14・2・11)、従来からの見番、料理屋、芸妓置屋の三つの組合の渾然融合をはかってゆくことにした。芸妓の稼ぎ高、すなわち線香代は、大正十一年一本(三〇分)三二銭(半玉二〇銭)であったが、昭和六年の不況時には三〇銭に値下げしている(北タイ 昭6・11・6夕)。芸妓組合では、芸妓の質を高めるため昭和五年四月、芸妓試験を実施した(北タイ 昭5・4・24)。
十二年四月当時、中央、札幌、自治の三見番で二五〇人の芸妓たちが働いていたが、見番制から自営制に切り替わり、芸妓屋組合が設立された(北タイ 昭12・4・2夕)。日中戦争勃発以降の十四年十一月、道庁保安課では芸妓の線香代一本(三〇分)を九〇銭と決定、それまで一時間二円であったため、芸妓代表は警察署に値上げを陳情した(北タイ 昭14・11・22)。この時、芸妓の年季を五年、服装、閉店時間(午前零時)、客との外出禁止などの注意事項を出し、さらに翌年二月には芸妓ら三〇〇余人を警察署に集め「事変下の風俗警察」について述べ、自粛自戒を要望するのだった(北タイ 昭15・2・8)。
以上の芸妓のほか、札幌警察署が管轄するものに酌婦、雇女として働く女性が統計書の数字としてあげられている。昭和元年の場合、芸妓七二二人に対し、酌婦一六五人、雇女一六六七人と、雇女が酌婦の約一〇倍もいた。これが十四年になると、芸妓六三八人、酌婦一八六二人、女給および雇女四二一人と、酌婦の数が芸妓の約三倍にも増加し、雇女の項には女給の数も含まれるようになる。酌婦や雇女は、唄や三味線の芸を持たなくともなれる手っ取り早い収入への道でもあった。その代わり、線香代は昭和十四年の場合、芸妓一本九〇銭に対して酌婦一本四五銭と、半分であった(北タイ 昭14・11・22)。
また芸妓、酌婦、雇女とも、警察署の健康診断の対象者でもあった。十四年の場合、検診人員に対する梅毒等花柳病患者百分比は、芸妓八・一五、酌婦一四・七七、女給および雇女一七・五八であったから、酌婦や女給および雇女の罹患率の高さがまず指摘される。それとともに同年の全道の場合、警察署が管轄する密売淫検挙者三三三人のうち職業別でみると、酌婦一三二人、料理屋・飲食店雇女九六人と全体の六八パーセントを占め、うち二〇パーセントが花柳病患者であった。このことは、下層社会に住む女性の落ちてゆく先の生活が、いかに健康とはかけ離れたものであったか物語っていよう。