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「アイヌ学院」の設立と「旧土人奨学資金給与規程」の制定

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 昭和戦前期の札幌には、「バチェラー学園」と同様に全国的な中等学校への進学ブームを背景として、アイヌ民族を対象とする中等教育機関が設立された。それは昭和四年に開校した「アイヌ学院」である。同学院はアイヌ民族の「優良児童を選抜して中等教育を施す」施設で、経営者は「町田博士」である(樽新 昭4・3・21夕)。この「町田博士」のプロフィールや教育実態などは不明であるが、実際に生徒が同学院に入学した事実は『吉田巌日記』で確認することができる。その生徒はアイヌ小学校のひとつである第二伏古尋常小学校を卒業した帯広町伏古の山村正雄である(吉田巌日記 第一五)。山村はアイヌ民族の自力更正団体である十勝旭明社から推薦を受けていた(樽新 昭4・3・21夕)。
 北海道庁は昭和六年六月、アイヌ民族の中等学校以上への進学も念頭に置いた「旧土人奨学資金給与規程」を制定した。この原資となったのは、明治十六・十七年に宮内省や文部省から交付された合計三〇〇〇円のアイヌ教育資金である。
 同規程によれば、その対象は「旧土人ノ子弟ニシテ就学又ハ修学ヲ為サムトスル者」で、支給額は「一人一箇月三十円以内」とされていた。八年十二月時点では、東京帝国大学文学部に進学した知里眞志保をはじめとして、一六人が支給を受けていた。このなかには札幌商業学校に進学した、平取村の二人のアイヌ民族の少年も含まれていた(北海道庁 北海道旧土人保護沿革史)。