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不況の時代と物価値下げ運動

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 昭和四年(一九二九)十月、アメリカの証券取引所に端を発した経済恐慌は、翌五年春以後、本格的な世界恐慌へと発展した。そして、日本へもこの恐慌の波が押し寄せてきたことはいうまでもない。工場の操業短縮、事業縮少あるいは閉鎖が相次いで発生した。その結果国内には失業者が激増し、社会不安が増大し、札幌市立職業紹介所における求職者数は年々増加し、就職率がどんどん低下したことは第二節で詳述する。
 いずれにしても、失業者が大量に存在していたことは事実であり、失業者の増大と大衆の貧困は、政府の弾圧にもかかわらず、各種の社会運動へと発展した。
 恐慌の波は都市ばかりでなく農村にも深刻な影響を与えた。昭和五年の豊作貧乏に続いて翌六年の秋、北海道・東北地方は未曾有の凶作に見舞われ、前年来の農業恐慌による農村の極度の疲弊も大きく作用し、農民たちは飢えをしのいでいたのであるが、この間に女性や子供の人身売買や欠食児童が増大していった。
 都市失業者の増加に加え、農村の疲弊によって都市へなだれ込む人口が増加、失業者の群れが札幌の街を埋め、不景気が人びとの心を沈ませた。満州事変の翌年の札幌は、金輸出再禁止が物価騰貴を誘致し、俸給、賃金生活者の生計を圧迫した(北タイ 昭7・3・12)。九年には米価が、十年には豆腐、麺類、醤油、それと市電料金までが値上がった。
 こうした不況下、小樽に発した電灯料値下げ運動が、昭和四年十月札幌にも波及した(北タイ 昭4・10・12)。六年十月、札幌市民大会において北海水力電気に対する電灯料金三割値下げが可決され(北タイ 昭6・12・6)たが、北海水力電気側は拒否した。八年九月、電灯料値下げ同盟会は市民大会を開催し、さらに決意を固めた(北タイ 昭8・9・28)。札幌市側も電気水道委員会を設け、電灯料引下げ調査を八年六月決定していたが、十二年になっても解決には至っていない(北タイ 昭12・4・7)。