大正九年、札幌市にお目見えしたカフェー(喫茶店、中でもパウリスタは北大教授佐藤昌介等の出資によるもので、今でいう純喫茶である)は、昭和五~六年になると札幌市内に急増していた。世はまさに不況の中で、失業者が街に溢れ、浮浪者の数も日毎に増していった時期にあって、ネオン街の酒場だけは一種独特のムードを保っていた。「尖端的な営業方針と時代に順応したサービス」といわれたカフェーを、道庁保安課が取り締りのために調査したところ、全道に一六一三軒、女給(ウェイトレス)二八六九人が働いていることがわかった。うち札幌は四五九軒、二八・五パーセント、九三七人、三二・七パーセントと最も多いこともわかった(北タイ 昭6・1・15)。女給のその後の数は、札幌警察署の調査で、昭和十年には八五九人(北タイ 昭10・1・20)、同十一年には六六七人(北タイ 昭11・4・12)と漸減していっている。
カフェーと女給の数を全国的にみると、女給の数では昭和十二年の日中戦争が始まるまで毎年増加の傾向をたどり、戦時に入ると急激に減少していっている。しかしカフェー・バーの数は昭和九年をピークに漸減している(東京百年史 五)。これは時局柄、カフェー・バーの新設が行政指導によって規制を受け、新設が困難になったものである。全国と札幌を比較すると、まず女給は昭和五~六年にピークを迎え、全国よりも早目に減少傾向を示している。これに対しカフェー・バーの数は、昭和十二年段階も四五〇軒余あったということから、ピーク時のまま、日中戦争期に入ったといえる。高額な芸者遊びよりも、安価で大衆的なカフェー・バーに享楽を求める時代であった。
これより先の昭和四年十一月より、札幌警察署はカフェーの女給の制限や風紀取り締りを強化し、「蓄音機も鳴らすな」など七項目の通達を出して厳重に取り締まった。この中には女給すべてに「白色エプロンを掛けしむること」も含まれていた(北タイ 昭4・10・30)。五色の光・虹・衣・ミミー・サロン錦水・マリモ・コマドリ・春・銀河等の名を持つカフェー・バーの多くは薄野に集中し、豊平、白石、創成川以東にもあった。十年十月には、業界の発展を目的に北海道カフェー連盟を結成、純カフェーを目指した(北タイ 昭10・10・24)。札幌の場合、純カフェー組合加盟者は二一のみで、あとは混然とした飲食店組合に属していた。