戦時体制が深まりゆくなかで、昭和八年四月二十九日、札幌市各青年団はその活動を強化するため、札幌市連合青年団を組織した。男子青年団は農業技術の向上、公的業務への積極参加、軍人遺家族の慰問など「自力更正」を目的とするもので、十年より青年学校が開校され、技術教育のほかに「国民精神作興施設として修養会、敬神会」の活動に重きを置いた。九年十月の札幌市の男子青年団員は七八三人で、旭川市、函館市のそれより少ない。男子青年団、青年学校は、技術とともに精神面で次第に軍事体制の補助機関化していった。
男子青年団に較べ、活発な活動を行っていたのは女子青年団である。「非常時」が叫ばれる昭和八年五月五日、札幌女子青年団は総会を開き、「国際連盟離脱に関する詔書奉読式」を行い、「皇居遥拝」し、二五聯隊の神田中佐より「時局講演」を聴講した(北タイ 昭和8・5・7)。同年十一月二十三日、大日本聯合婦人会等とともに「非常時女性訓練協議会」を開き、「非常時に対する認識を高め国民的信念を養ひ之が打開に邁進する為に女子として特に実行すべき項如何」を論じ、「日本婦道を顕揚すること」をはじめ七項目を決議した(北タイ 昭8・11・25)。
農村部においても同様で、八年十一月二日、軽川女子青年団は「現下の非常時に処し鋭意婦徳修養」のため、「演芸会」を催した。出し物の「武装せる小学生の唱歌アジア行進曲」は大喝采を博したという(北タイ 昭8・11・7)。活動そのものは活発であるが、あまりにも精神主義的である。
翌九年二月、道庁は女子青年団に対し、「家庭教育振興、生活改善の訓練」のため、家計簿の使い方と副業の研究実施方を指示した(北タイ 昭9・2・1)。要するに、計画的に家計を切り盛りすることと、内職の奨励である。同年七月、同じく道庁は青年団および女子青年団に農事部設置を奨励し、「理想農村建設に資せしめ」ることとした。これにより、従来の農事実行組合壮青年部ならびに女子部は解散された(北タイ 昭9・7・15)。これを受けてのことと思われるが、同年八月二十三日には、石狩支庁管内第四回聯合女子青年団大会が札幌市外円山小学校に一二〇〇余人が参加して開かれ、まず「明治大帝御着用の御羽織」を小樽住吉神社へ奉納し、次いで女子青年団員一一人が「交々立って非常時農村女子として執るべき意見」を発表した(北タイ 昭9・8・24)。
男子、女子青年団の動きに共通していえることは、満州事変以後の農業技術の改良など生活改善につながるものが若干あるものの、「非常時」という大義名分をかざして国家政策への精神的一体化をはかるという面が強くみられる点である。しかし、女子青年団の事例にもあるように、屋上屋を重ねただけのものもあり、精神的一体化が現実にどれほど達成されたかきわめて疑わしい。また、この時点では、「婦道」に徹することが求められ、日中全面戦争以後求められる女性像(働く女性像)とは明らかに異なっている点も見落としにはできないであろう。