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昭和十五年の札幌

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 十五年の札幌市の世相を『北海タイムス』から拾うと次のとおりであった。「暮し難いサッポロ/東京以上のせつなさ」の見出しで、内閣統計局の十四年末の全国生計指数で、札幌市のサラリーマンの生活費の高いことがまず指摘された。やはり、日中戦争当初と比較し札幌市の生計指数は三〇パーセント高を突破し、全国一〇都市中でも四番目と高い(一月)。
 人びとの不満は、節電、節米、石炭不足(二月から切符制)の物不足にあった。おまけに銭湯料・理髪料の値上げ、インフレ景気に次から次へと値上げの連続。石炭の節約・配給問題は厳寒期にあって死活問題であった(二月)。
 物不足はさらに拡大し、児童のゴム靴が配給化、「芋粥運動」「空地耕せ運動」と食糧増産がすすみ、パーマネントの自粛運動が始まった(四月)。米、石炭、砂糖、木炭等絶対量の不足から公区を単位として切符制が検討され(六月)、道庁統計課の調査では札幌の生計指数は早くも日中戦争勃発前の五〇パーセント増となり、三年の間にすさまじいまでの生活への圧迫を感じさせる。「万物みな資源/滅せよ〝塵芥〟の字」の見出しで、公区中心にゴミ箱廃止運動が開始され、節米が強化された(七月)。
 物不足は、女性たちの化粧、衣服、ファッションにまで自粛の嵐となってあらわれた。女性たちの「派手な服装」「電髪も止しませう」の言葉どおり、自粛から贅沢廃止運動へと展開、デパート・小売店の大衆用品の値下げ、菓子の規格・値段の統一、そして公定価格の認識普及のための物価展覧会が人気を呼んだ(八月)。「奢侶追放」はいよいよかまびすしく、「粛髪監視隊」まで組織され、「闇献立」の摘発を受ける食堂が新聞で報じられた(九月)。食生活は「代用食」が当たり前となり(十月)、ついに「米なし日」「蚊帳吊環蒐集運動」が開始され、ストーブの取付け日まで決められ、人びとは寒さをも我慢しなければならなかった(十一月)。
 年末を迎え、米の配給が二日分から五日分となったのはよかったが、公区隣保班の代用食研究発表会が行われたり、花柳界のさらなる自粛が断行された(十二月)。食・衣・燃料の類までこのように物資の欠乏をきたし、人びとは、戦時の体制への不満を抱きつつも、表に出すこともなく、物資の統制に順応しながらそのなかで生活の防衛手段をはかるのだった。