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「欠食児童」問題と学校給食の開始

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 昭和五年頃から札幌の教育界で大きくクローズアップされてきた問題が経済不況に起因する「欠食児童」をめぐるそれである。この「欠食児童」問題は札幌はもとより、全国的な問題で、文部省は七年時点の全国の推定値として、二〇万人と発表していた(毛利子来 現代日本小児保健史)。北海道では六年の大凶作や九年の冷害も相俟って、問題が深刻化していた。
 札幌で最初に「欠食児童」問題が教育上の重大問題として提起されたのは、昭和五年六月の札幌市小学校聯合保護者会例会である。その席上、東北尋常高等小学校保護者会から協議題のひとつとして、「欠食児童(家庭貧困の為)に対し相当の途を講ぜられんことを当局に建議すること」が提出され、可決された(樽新 昭5・6・29)。この決議に基づいて、同聯合保護者会ではその応急対策として、「いも粥」を支給することとし、札幌市教育課に「欠食児童」の実態調査を要請した(樽新 昭5・10・30)。市教育課の調査によれば、五年十月の時点で「欠食児童」は尋常科一年から高等科二年までの全児童中四〇人であった(北タイ 昭5・11・1)。この調査はその対象を就学児童に限定して実施したもので、乳幼児までを含めるとその人数は大幅に増加していたと思われる。
 同年十一月、東橋尋常高等小学校では有志の寄附によって「欠食児童」六人に対し、昼食を提供することにした(北タイ 昭5・11・11)。その一日目のメニューは「あたゝかいごはんに鮭を一きれ」を付けたものであった(同前)。市内の「欠食児童」も同年十二月時点では四〇人から一八人へと減少していた(北タイ 昭6・1・9)。その過半数の一〇人を占めていたのは北光尋常高等小学校の児童であった(同前)。
 六年の札幌市内の「欠食児童」の実態は不明であるが、都市部の小樽市や函館市でもそれぞれ二〇〇人を超えていた(東京日日新聞 北海道樺太版 昭6・12・8、北タイ 昭6・12・15)。七年には「欠食児童」が北海道全体で五万人に上り、道庁は文部省に対し二七万円(一人に付き一食五銭)を給食費として第二予備金から支出する旨の申請書を提出するほどの事態となっていた(東京日日新聞 北海道樺太版 昭7・10・29)。
 昭和十年になると、再び札幌市内の「欠食児童」の実態が報じられるようになり、同年五月には一九六人を数え、十月にはそれから八〇人増加して二七七人に達していた(北タイ 昭10・10・28)。ちなみに、十月の調査では北海道全体で「欠食児童」は四万八〇七八人と報告されており、この時点で道庁へ報告がなされていなかった桧山・留萌の両支庁分を加えると、さらに人数は増加すると思われる。都市部では小樽市が三五九人、函館市が八二一人とそれぞれ報告されていた(同前)。
 これまで述べてきた「欠食児童」問題に加えて、当時、医学的見地からしばしば指摘されていた「栄養不良児童」問題への対応策として、札幌市では昭和七年十二月から「学校給食」制度を導入した(札幌教育 第一〇一号)。この法的根拠は同年九月の文部省訓令「学校給食臨時施設方法」と文部省普通学務局長・文部大臣官房体育課長通牒「学校給食臨時施設方法ニ関スル件」であった(東京都教育史 通史編三)。札幌市では「学校給食」の提供に当たり、学校職員が当該児童の家庭を訪問し、保護者の了解を得て実施した(札幌教育 第一〇一号)。「欠食児童」への給食方法は教員、学校看護婦、使丁らが一人に付き一食四銭の範囲で、「弁当詰、握飯、丼物等」を作り、「児童の自尊心を傷けざる様考慮を払ひ、教室に配付給与」したり、「児童自ら小使室に来りて給与を受」けたりした(同前)。そして、十年九月からは大通尋常小学校で、道庁衛生課技師の指導を受け、「欠食児童」一二人と給食希望者一八〇人を対象に「全道に魁けて」、本格的な「学校給食」を実施した(北タイ 昭10・9・24)。

写真-2 大通尋常小学校の学校給食(北タイ 昭10.9.24)