写真-18 宮崎安
「北海道庁立盲学校学則」によれば、同校の目的は「皇道ノ道ニ則リテ盲人ニ普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スト共ニ其ノ生活ニ須要ナル知識技能ヲ授クル」と規定されている。これと大正十二年に制定された「盲学校及聾啞学校令」の目的規定と比較して、「皇道ノ道ニ則リ」と「国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」という、当時の諸学校令と共通するフレーズを使用している点が異なっている。同校もまさに「錬成」の場として位置づけられていたのである。
同校には「年齢満六歳以上ノ者」が入学する六カ年課程の初等部と、「初等部修了者又ハ之ト同等以上ノ学力ヲ有スル年齢満十二歳以上ノ者」が入学する四カ年課程の中等部がそれぞれ設置されていた。初等部の教科は「国民科」「理数科」「体錬科」「芸能科」の各科で、国民学校のそれに準拠していた。また、中等部は初等部の教科に加えて、「家政科(女子)」「鍼按科」「外国語」の三教科を必修とした。
視覚障害者の職業的自立は明治期からの「盲教育」の重要な課題であった。「鍼治」と「按摩」の技術を習得する「鍼按科」はそのための教科として位置づけられていた。帝国盲教育会では、昭和十年代に視覚障害者の職業領域の拡大を目指し、文部省に対して数度の答申を行った。しかし、日中戦争の開始とともに、それは学校教育の次元とは別に、軍事保護院を中心とした研究に移行していった(特殊教育百年史)。なお、同校の入学料や授業料は無償とされていた。
同校は将来的には視覚障害者の教育はもとより、北海道庁長官・坂千秋が開校前年の十七年の通常道会で答弁したように、「傷痍軍人に対する盲人教育をも併せ行ふこと」が構想されていた(道新 昭18・7・16)。これは十三年に東京盲学校内に設置された「失明傷痍軍人教育所」を念頭に置いた答弁であったといえよう。