昭和十六年十二月、新聞事業の統制、管理を目的とする「新聞事業令」が公布された。これにより、翌年二月日本新聞会が設立し、東京、大阪の二大都市を除いて一県一紙とする新聞統合が行われた。
道内では、十六年末現在存続していたのは一一紙で、いずれも北海タイムスか小樽新聞および旭川新聞の系列に属していた。かろうじて独立を保っていたのは、釧路新聞と根室新聞の二紙だけであった。このような状況下で十七年、北海道庁長官戸塚九一郎は阿部良夫(北海タイムス)、地崎宇三郎(小樽新聞)、原忠雄(新函館)、田中秋声(旭川新聞)、鈴木要吉(室蘭日報)、遠藤清一(釧路新聞)、安藤武雄(根室新聞)の七人を集め、一紙合同を申し入れた(北海道新聞四十年史)。その後、合同会社設立準備委員会を発足して協議に入ったものの、役員の人選や資産の評価等利害の対立から容易に決せず、統合は難航した。七月にようやく基本構想がまとまり、発行所の選定、幹部人事についての結論が出たのは九月に入ってからであった。同月十二日、北海道庁長官裁定の形式で最終決定を見、十月末日をもって北海タイムス、小樽新聞、新函館、旭川新聞、室蘭日報、釧路新聞、根室新聞、網走新報、北見新聞、十勝毎日新聞、旭川タイムスの一一紙は廃刊し、統合して『北海道新聞』となった。
本社は旧北海タイムス社(大通西3)に置かれ、道内六カ所(函館、旭川、釧路、帯広、室蘭、北見)に支社、道外(大阪、青森、樺太の大泊、真岡、敷香、恵須取)に六支局、道内(江差他)に一七支局を置いた。第一号が発刊されたのは昭和十七年十一月一日で、創刊当初の発行部数は四六万五〇〇〇部であった(新北海道史 第五巻)。