占領軍による札幌進駐については、第一章の「占領下の市政と行政」に詳しい。接収物件(PD物件)は、札幌特別調達局が窓口となっていたが、建物・土地・その他にわたり、全道では二三五件、札幌では九五件にのぼったといわれているが、正確な件数は公開されていない。二十七年四月二十八日の講和条約発効前後から、接収物件についての返還解除されるべき物件に関しての『道新』の記事も多くなる。講和条約では「九〇日以内に返還する」の一項があったにもかかわらず、七月十四日付では、十一日現在解除された物件は、札幌朝日生命ビル、室蘭税関等一六件に過ぎず、大同ビルは近々であるが、札幌グランドホテルをはじめ鉄道集会所等全道で八四件については、解除の時期が未決定であった。同ホテルが解除となったのは、同年九月のことである。個人住宅等は九年間の長期接収のため辛酸をなめさせられたという逸話も後日談として残されている。大方の市民が解除をひたすら待つ情勢の中札幌グランドホテル西側隣接の札幌商工会議所(札商ビル)の場合、接収解除の陳情運動も起こされていた。
札商ビルは、札幌グランドホテルと同時期の二十年十一月、占領軍に接収され、憲兵隊本部として使用されていた。このため、土建協会(北4西3)の一隅を賃借して事務所にあてて事業遂行していた。二十四年十月付の札幌商工会議所会頭名による「札幌商工会議所事務所接収解除助力方懇請書」には、札幌地方の産業経済の振興こそが北海道総合開発の成否を左右し、会議所の使命の緊要性が高いこと、各国一層の国際的活躍が要請されるとき、賃借事務所の不備狭隘の点で行き詰まり、懊悩に堪えないこと等を切々と訴え、接収解除に助力方を懇請した。宿願がかなったのは、約三年後の二十七年八月二十六日のことで、札幌調達局不動産部長名による「土地等返還通知書」がもたらされた。隣接の札幌グランドホテルの場合、接収解除で返還時施設備品のうち残っていたのがベッドのほかミシン一台、三面鏡七台、ピアノ一台だけというすさまじい荒れ方であった、というのはあまりにも有名であるが、札商ビルの場合、被害について国家補償要求を行い、国家補償金として九七四万円余の支払いを受けた(札幌商工会議所八十年史)。返還建物等の被害については多く語られているものの、国家補償を求めた例は多くはなかったのではなかろうか。