地方軍政機関は、GHQ・SCAPの日本政府に対する指令が遵守されているかどうかを監視することを任務とした。「特別の場合を除いては日本側への命令の提示・直接指導及び監督はタテマエとしてはできないことになっていた。ただし実際には地方軍政部が管轄地域の政治・行政などに干渉したり命令を発した場合が多かった」。そして、初期の軍政について、第八軍の記録では「幸運にも日本の地方行政は障害なく機能を継続しており、戦術部隊の軍政要員は自由に地方状況を調査し、それらを上級司令部に報告できた」と記している(以上、前掲 横浜市史Ⅱ)。
二十年九月末、同じ第九軍団管下の第八一師団が青森に進駐した際、知事宛に「今ヤ余等ハ貴下ノ国土ニ入リ、貴下等ガ平和ノ道ニ復帰スルヲ保証スルガ如キ管理ヲ行フヲ以テ余等ノ任務トナスニ至レリ、本事業ヲ整然ト行ハンガ為ニハ県ノ施策ヲ指導スルヲ要シ、且ツ貴下等行政ノ上ニ別個ノ軍司令部ヲ設置スルノ要アリ」(江藤淳編 占領史録第四巻)という覚書を発しているが、第七七師団においても道に対しておおよそ同様な指示を出したと推測される。
北海道における軍政の実際とは、たとえば、北海道連絡調整事務局長からの二十三年三月上半期の『執務報告』が「全道的に労働攻勢激化の傾向が明らかとなり軍政部としては労働問題に干渉しない従来の態度を持続けているものの、ストライキ等が産業に及ぼす影響については深甚な関心を示し、右関心がこの期における軍政部の活動を特徴づけている」(日本占領・外交関係資料集 第二期第二巻)と記すようなものであった。また、二十二年五月、第八軍司令官アイケルバーガー中将が来道し、田中敏文知事と食糧の供出や石炭の増産問題を中心に会見している。
このように、占領軍施策の監督・指導は主に道および国の出先機関である北海道連絡調整事務局に対しておこなわれた。「毎日毎日、ときには一日数回も出かけて、打ち合わせやら交渉やら、それが知事の仕事だった」(証言 北海道戦後史)という。『北海道議会史』(第五巻)も「実質的には地方軍政部が、地方行政機関を完全に従属せしめるほどの機能をもち、北海道においても、道内行政の各般にわたって強力な指示、命令が与えられた」と述べている。
この北海道連絡調整事務局により、二十四年春ころから、毎月一回の定例で「北海道地方連絡協議会」が開かれている。札幌市を含む「各諸官公庁側と連合国側の連絡調整及び情報の交換」の場とされた(昭25事務)。