昭和二十一年二月の市会で上原市長は次のように二十一年度予算提案説明を行った。戦前来未解決の問題に戦争終結のため整理改廃を要するものが累積しており、さらに戦後の時局への対応も考えて、「都市計画を始め教育、衛生、厚生、産業等各方面に亘り新たなる構想の下に市政の綜合的根本方針を確立し、此の面に添うて実行いたさねばならぬ点が多々ある」。しかしながら、国家の統一的な総合計画もなく、現在の混乱した経済界の状況では、一年間の的確な予算を編成することは非常に困難である。そこで、①戦争関係で膨張した経費はことごとくこれを削除・圧縮し、市民生活の安定と終戦後の時局に対処すべき経費の計上につとめる、②各種の事業については差し当たり緊要と認めるもの以外は計上を見合わせる、③人件費は一般庁費に属する人員を一割減とする、④物件費は石炭、木炭、薬品、特殊備品等の特別のものは最近の価格に合わせて所要額を計上するが、それ以外は一~二割増にとどめる、という方針を立てて予算を編成した(六期小史)。
二十年末から翌年にかけて配給の遅配欠配が続き、市民の食糧生活は依然危機に陥ったままであった。こうした事態のもと、二十一年一月、社会、共産、協同三党札幌支部と市内の全労働団体が中心となって「札幌市民食糧管理協議会」を結成した。同協議会は五月十一日に増田甲子七北海道庁長官と交渉して、「札幌市民食糧協議会」と改称し、米の配給方法や隠匿物資の摘発について行政・警察側と協議・協同して行うことを認められた(道新 昭21・5・14)。同協議会は、食糧配給の改善を要求して連日のように市役所に押しかけるなどの大衆行動に訴え、市議会が食糧確保・配給のために公式に設置した「食糧対策委員会」の存在を問題視して、自己の活動予算と事務室を要求し、帳簿公開を迫って配給の不正を追及した。五月十九日にはこの食糧協議会が中心になって食糧メーデーを開催し、市・市議会との対立は深刻なものとなった。このため、上原市長は辞任を決意する苦境に陥った(人生記録)。しかし、事態は結局、市民食糧協議会と食糧対策委員会の提携によって新組織を発足させることで収束し、五月三十一日に「札幌市民食糧委員会」が発足した。