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産業振興委員会

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 上原市政は、食糧問題をはじめとする緊急課題への対処に追われ、硬直した予算編成しか行い得なかった。しかし、戦前、内務省、帝都復興院、東京市、東京市商工経済会に勤めた、都市計画・地方財政のテクノクラートであった上原六郎は、敗戦間もないこの時点でも、札幌市を発展させるために商工業の振興と都市総合計画の構想を樹立しようともしていた。
 昭和二十一年十一月十九日、札幌市産業振興委員会が設置された。商業、工業、農林業、都市計画の四つの部会を設け、それぞれ二五人、四六人、一四人、二七人の「有識経験者」が委員に委嘱された。会長は市長で、各部会には部会長一人と常任委員若干名が置かれ、翌年一月二十九日には委員会事務局が設置された。「札幌市産業振興委員会設置要綱」には同委員会設置の「趣旨」が次のようにある。「敗戦後日本の産業経済はその形態内容共に急激な変革の途上にあるのに鑑みて国民経済諸部門の均衡ある再建拡充を企図することは極めて緊要の事態にある」。わが国の主要な資源地としての北海道、とりわけ政治・経済・文化の中心地である札幌市の産業経済振興・民生安定に果たす役割は緊要・重大である。こうした見地に基づいて札幌市の「都市計画其の他諸施策と関連して商業工業農業林業等の速かな再建発達を図るため必要なる対策の樹立を要する」として、「衆智を糾合する」ために同委員会を設置する(市長事務引継書・原田市長代理から高田市長へ、昭22)。
 委員は、市議、道議、衆院議員の他、札幌商工会議所、北海道拓殖銀行、国鉄、統制会社・組合、道農業会の代表、道工業試験場長・農業試験場長、また商業、工業、運輸、農業、水産、食品などの主要企業の代表が選ばれた。設置以後二十二年四月までに、常任委員会が商業部会三回、工業部会三回、農林業部会二回、都市計画部会二回、農林業・都市計画合同部会一回、開かれている。審議・調査された事項は、商業部会が自由競争助成、自由市場の設置、商業地帯の設置、港の必要性、商業実態調査など、工業部会が既存工業の振興、新規工業の企画・誘致、家内工業の助成、工業実態調査、農林業部会が隣接町村の農地(山林)実態調査、都市区域の拡張調査、港施設の所有などであった。また二十二年三月三~九日に隣接町村の実地調査を行い、二月二十四日には札幌市に隣接する豊平町・石狩町・琴似町・篠路村・白石村・札幌村・手稲村の町村長代理と農業会長・町村議会議長および石狩支庁長代理(産業課長)を集めて札幌市産業振興協議会を開催しており、産業振興委員会の視野は周辺町村にまで広がっていた。同委員会の設置について報じた新聞記事によれば、市は五年以内に人口五〇万人を収容する大都市建設を前提として、商工農林など産業五カ年計画と土木・運輸・交通等の都市五カ年計画を樹立する構想であるとしている(道新 昭21・8・31)。二十二年の人口は約二三万人であったから、上原市政の産業振興・都市発展の計画は周辺町村をも都市圏に組み込もうとしたスケールの大きな構想であった。