初代公選札幌市長となった
高田富與は、明治二十五年(一八九二)福島県大野村に生まれた。一〇歳の時に札幌郡豊平村に転居し、
郵便局勤めの後、北海道師範学校に入学、大正三年(一九一四)に卒業した。札幌区山鼻小学校などで教員をした後、中央大学に学び、大正十二年弁護士を開業した。昭和五年(一九三〇)に市会議員に初当選し、以後連続三期当選したが、十七年の翼賛選挙では落選した(推薦候補)(
高田富與 なぎさのあしあと)。十五、十六年に発生した北海道綴方教育連盟事件の弁護を十七、十八年に務めた(
高田富與 綴方連盟事件)。十九年札幌市連合公区長会会長、二十年十二月札幌市食糧対策委員長、二十一年三月道地方労働委員会会長にそれぞれなっている(なぎさのあしあと)。高田は市議を一二年にわたって務めたほか、敗戦後には重要な公職についており、札幌市内では有力な人物になっていた。今回の市長選では、保守系の市会議員や市政功労者、連合公区長などの大きな支持を得、
上原六郎前市長と
原田與作助役、道議その他市内の有力者の強い慫慂(しょうよう)もあって立候補を決意したのであった(
高田富與 市政私記)。
写真-5 高田富與市長
昭和二十二年(一九四七)四月八日、高田は市役所に初登庁した。全職員への就任挨拶の中で、「健康的で明朗な都市、換言すれば市民のすべてが、快適な毎日を過すことができる都市たらしめる手段が、市政である」、「私達の日常の事務のすべてが、市民生活に直結しているということができ、ここに市政の目的とも称すべきものがあるので、如何に努めたならば、市民に奉仕することができるかに終始意を持つことが、まず市政に携わる私達の任務である」と述べ、市民のための市政という理念を唱った(市政私記)。