第一期高田市政は、市財政が窮地にあり、新たな事業を計画的に遂行していくことは不可能であった。しかし、昭和二十四年九月にシャウプ勧告が出され、安定的な地方税法の成立とそれによる自治体財政の改善が見込まれたので、二十五年三月に「新規事業五カ年計画」が策定され、四月より実施に移された。これは教育・衛生・社会・治安・土木・水道・交通等の各部門にわたって樹立した総合的な都市整備事業であった。円山公園の整備、産業会館・動物園・スポーツ施設の設置などの重点項目もあったが、「大体において一般的な都市施設の整備拡張」(市政私記)を企図したものであった。
その前、二十四年七月十日に札幌市創建八〇周年・自治五〇周年記念式典が行われていた。明治二年(一八六九)に北海道の首都として建設に着手されて八〇年、明治三十二年(一八九九)に札幌区として自治制がしかれて五〇年となり、それを記念して行われたものである。各学校、官庁、新聞社、放送局、文化・体育団体、企業・商工業団体の協力を得て、盛大なパレード、体育競技大会、市民文化祭、高齢者慰問、市史・市民読本編纂、観光宣伝天然色映画「グレートサッポロ」制作、市民の歌制作、中島野球場・中島児童会館設立、などが実施された。七月十一日札幌市初の名誉市民として宮部金吾が選ばれた(札幌市創建八〇周年・自治五〇周年記念事業関係書類①~③)。
次第に時勢は回復し、人々の生活は落ち着きを取り戻しつつあった。市の行政にもやや積極的な面が見られるようになってきた。二十五年七月一日、白石村を合併し、面積は約二倍になった。しかし、本格的な都市建設事業の展開はまだ先のことであった。