昭和二十年十二月二十二日、内務省は各地方長官宛に通牒を発し、町内会・部落会の弊害の是正を求めた(戦後自治史 第一巻 以下自治史)。これを受けて札幌市でも、翌二十一年二月二十七日、札幌市公区及連合公区設置規程の改正を行った(広報 昭21・3・10)。改正規程では、公区と連合公区の目的について「隣保団結共存共栄ノ精神ニ基ク市民ノ自主的運営ニ依リ…新日本ノ建設ニ寄与スル」ことであるとされた(第一条)。改正が行われた直後の市会では、一議員から「今後ノ公区ハ民主的ナ性格ヲ有タセマシテ札幌市政トイフモノデモ総テノモノヲ公区ヲ通ジテ行ハシメル様ニシナケレバナラヌ」との見解が示され、これに対して上原市長は同感であると答弁している(昭21第一回通常札幌市会速記録)。この時点では、公区の市政補助機関としての役割は残しながら、戦時中の性格を払拭した民主的な運営が目指されていたといえる。
市民の側にも、民主的な要素を取り入れた新たな公区運営を目指した例が見られる。二十一年一月二十五日の『北海道新聞』には、「公区設置規程の改廃を待たず種々実質的な」民主化の方法を試みる傾向が見られるとして、「豊平第十六公区の例」が挙げられている。同公区では、「明朗町内建設をめざし『公区月報』の発行、物資配給の公開および与論を反映させる『隣の声』の公募、公区幹部の献身的活動を実施しさらに婦人参政、生活の科学化および子供の娯楽など種々の行事を計画し」ていたという。
また、役員などの人的構成に関する戦前との継続性については判然としないが、大きな変化はなかったようである。同年四月二十一日、公区長改選が各公区で行われたが、「全市民が期待した新人公区長出現を裏切り蓋をあけるとその殆どが戦時中の公区長であつた」という(道新 昭21・5・14)。