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札幌村・琴似町・篠路村の合併

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 札幌村では、白石村の合併以前の昭和二十五年(一九五〇)四月一日に、市への一部編入が行われた。これは、北海道大学長が市に対して札幌村域内にあった官舎建設予定地を市に編入するよう要望したことを発端とするもので、「元村大学用地のうち本市北二十八条から東に中通りまで」を境界線とした(広報 昭25・3・15)。
 全村合併への動きが示されたのは、二十七年(一九五二)からである。この年、村議会に合併の動議が二回提出された。一度目は否決されたが、二度目の提出があった七月十四日には、審議の上、合併をめぐる利害を検討するために地域変更調査特別委員会が設置された(八期小史)。
 同じ頃、篠路村でも合併に関する問題が討議され始め、同年九月二十六日には札幌市に対して編入についての陳情書を村長・村議会議長名で提出している(篠路村の札幌市合併に関する資料 以下篠路資料)。
 琴似町でも、同年九月には町議会に境界変更調査特別委員会を置き、十二月十三日より活動を開始した(琴似町の札幌市合併に関する資料 以下琴似資料)。
 このような情勢を受け、市側も議会に境界変更調査特別委員会を設置した。同委員会は、その目的を「大札幌建設の規模」と「市の区域拡張」について必要な調査をすることと規定していた(札幌市議会報 五巻一〇号 昭27・10・30)。同委員会は、同年十一月十一日から、「隣接町村の行政全般についてその概況を把握するため」の調査に着手した(札幌市議会合併関係特別委員会の活動関係資料(琴似町・札幌村・篠路村関係) 以下活動資料)。これ以降、調査の対象とされたのは札幌村・琴似町・豊平町であり、篠路村は対象とされていなかった。
 二十八年(一九五三)には、札幌市と豊平町を含む二町二村がそれぞれ、合併の是非についての結論を出すための調査を進めている。その過程で、最初に態度を明らかにしたのは琴似町であった。同年九月三十日の町議会では、特別委員会が最終報告を行い、加えて「合併問題の促進に関する緊急動議を可決々定し」た(琴似資料)。同日、「併合の時期を調査するため」に第二次境界変更調査特別委員会を設置した(同前)。
 同年十二月二十二日の札幌市議会では、特別委員会の調査結果が報告され、「大札幌市建設の規模についての意見書」が議決された。前者において、札幌村・琴似町・豊平町の編入が適当であるとの結論が示されるとともに(活動資料)、後者では市に対して「三ヵ町村を包含する大札幌市建設の規模について具体的計画をすみやかに樹立するとともにこの合併編入の実現について鋭意努力」するように求めた(札幌市議会報 七巻一号 昭29・1・20)。ここに、市側の二町一村の合併方針は明確となった。しかし同時に、前年九月に提出されていた篠路村からの陳情は、地理的に直接隣接していないという理由で不採択とされ、同村は合併の対象とされないこととなった。また、同委員会は解散し、新たに隣接町村合併促進特別委員会が設置された。
 札幌村では特別委員会が、二十九年(一九五四)一月二十三日付けで中間報告を発表した。この中では、「大札幌市発展のため合併には賛成すべき」としながらも、さらに慎重な調査と「大札幌市の都市計画の線に沿い教育及び土木等の諸施設の整備を推進すること」が必要であるとされた(弘報さっぽろむら 一二三号 昭29・2・1)。このような村の慎重な姿勢に対して、村民からは札幌市との合併を促す活動が見られ始める。例えば、同年三月の村議会に対して、「札幌市編入に関する請願」が五件提出されている(同前 一二七号 昭29・3・25)。
 琴似町の特別委員会は、合併に向けての調査のほか札幌市側との協議を進めていた。二十九年五月には、町民の意向を調査するための公聴会を町内三カ所で開催した(琴似資料)。この後、五月二十七日には同委員会の報告書が町議会に提出され、この中で「本町は速やかに札幌市と合併すべきである」との結論が示された(琴似町議会境界変更調査特別委員会報告書)。ただし、この結論の評決は、賛成一三・反対八だったのであり(同前)、町議会にも一定数の合併反対派が存在していた。なお、同日札幌市議会でも「札幌市と琴似町との合併に関する意見書」が可決され、琴似町合併への強い意向を示した(札幌市議会報 七巻三号 昭29・6・15)。
 前述のように、札幌市では豊平町も合併の対象として調査・交渉を続けていたが、事態の進展をみていなかった。二十九年五月二十九日に市議会に提出された隣接町村合併促進特別委員会の中間報告では、豊平町については「積極的な呼びかけはこれを差控えて静観して」いるとされている(活動資料)。豊平町の合併については後述する。
 ところで、この時期には全国的に町村合併が進展していた。それは主に、町村合併促進法(昭28・9・1公布、同年10・1施行)によるものであった。同法は、町村が合併により組織・運営を合理的・能率的にし、「住民の福祉を増進するように規模の適正化を図ることを積極的に促進」(第一条)することを目的に掲げるものであった。同法は施行三年後までの時限立法であり、その間に全国の町村数は九六二二から三四七七に減少した(藤田武夫「戦後の町村合併」)。
 北海道においても同法に基づいて町村合併促進審議会が設置され、道内の町村合併計画が立てられた。同審議会が二十九年六月に作成した「北海道町村合併基本計画答申書」では篠路村と札幌村が合併すべきであるとされていたが、「現在札幌市との間にこの二ヶ町村を合併することについて協議が進められておる現況からして、今後関係市村の住民の意向を充分参酌して早急に適切な結論を出すことに努めることを附帯条件」としていた(札幌村の札幌市合併に関する資料)。
 これに対して両村はどのように対応したのだろうか。札幌村では二十九年八月三十日、「すみやかなる時期に於いて札幌市に合併すべし」とする特別委員会の報告書が村議会に提出され、札幌市合併準備特別委員会を設置した(同前)。それと同時に道知事に対し、札幌市との合併についての結論が出た後でなければ「篠路村との合併について考慮することは困難」とする意見を答申した(同前)。また、篠路村でも同年九月十一日に議会において、「道知事より示された札幌村との合併については賛成であるが対象町村である札幌村は既に札幌市に合併の気運が公表せられているので本村は勢い札幌市の合併を考究せられるも村民の意向を充分参酌して決定したい」とする意見を可決している(篠路資料)。また同年十月五日には、「札幌村と同時に札幌市に合併する事が最良の策」とする意見書が村議会で議決されている(札幌村・篠路村合併に関する経緯資料 以下札幌・篠路経緯)。この時点で、両村は札幌市への合併の意志を明確にし、道の示した合併案には従わない意向を示した。すなわち、結果として両村の札幌市との合併は町村合併促進法によるものではなかったのである。また、市側もこの頃より篠路村の合併を視野に入れ始める。市は前述の十月村議会の意見書に対し、同意を与えている(札幌市・札幌村及び篠路村配置分合申請書)。
 これ以降、合併の条件等について、より具体的な交渉が札幌市と一町二村との間で進められて行く。札幌村・篠路村では、村内の世論が合併後の旧村の扱いをめぐる問題に焦点が絞られていくが、琴似町は複雑な様相を見せた。琴似町議会の合併反対派議員の動きが二十九年後半から目立ってくるのである。同年十一月二十一日、町議会の八議員が琴似町合併反対の「要請文」を札幌市長へ提出した。この中で彼らは、町理事者の対応について、「住民の大多数が市合併に反対している事実を無視し」ていると非難した(琴似町合併に関する経緯資料)。また、町民からも合併反対の声が挙がり始めた。「札幌市との合併に反対する琴似町町政刷新協議会」などが、反対派の議員と連携した運動を活発化させていた(道新 昭29・11・21)。
 この間、合併条件をめぐる交渉は進展を見せ、市は二十九年十一月二十九日、琴似町・札幌村・篠路村に対して「合併に関する札幌市の基本的な方針」を送付した(札幌・篠路経緯、琴似町合併に関する経緯資料)。これを受け、一町二村はその内容の検討・修正の交渉に入る。結局、篠路村は市側の示した方針を基本的に了承し、二十九年十二月二十三日の村議会で札幌市への合併を議決した(篠路資料)。同日、札幌村議会でも合併を議決し、同時に市との間に「札幌市と札幌村の併合条件約定書」を交換した(札幌・篠路経緯)。両村と同日に開かれた札幌市議会で、隣接町村合併促進特別委員会が中間報告を行い、その後両村の合併が議決された(広報 昭30・1・15)。
 一方、琴似町では合併の賛否をめぐって混乱が起こっていた。合併反対派町民・議員の活動の他、賛成派の動きも見られるようになった。二十九年十二月二十三日には、「合併賛成派の町議会議員と合併の意見の強い宮ノ森地区のPT会員ら約六十名」が、町役場に町長を訪れて合併促進の決議文を手交し、「約一時間にわたつて陳情を行」った(道新 昭29・12・24)。それに対し、合併反対派の陣営でも、琴似町政刷新協議会などが中心となって、町長に対するリコールを請求する構えを見せた(道新 昭29・12・25)。
 三十年(一九五五)一月八日、町内が混乱を続ける中、琴似町長は町議会に合併議案を提出した。票決の結果、賛成一五・反対八で可決され、琴似町の札幌市合併はここに決定を見た(琴似町議会会議録)。同日、札幌市議会でも、同町の合併を議決している(札幌市・琴似町配置分合申請書)。
 同年三月一日をもって、札幌市は札幌村・琴似町・篠路村の一町二村を同時に合併した。