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原田市長の就任

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 新しく市長に当選した原田與作は、明治三十三年(一九〇〇)栃木県に生まれた。二歳の時に家族が農業開拓者として北海道名寄村に移住し、以後同村で育った。大正四年(一九一五)、札幌師範学校本科に入学、その後国勢院就職、日本大学法律学科入学などを経て、大正十一年に東京市に就職した。原田の東京市就職は、市政刷新のために東京市長になった後藤新平に心酔したためであった。東京市では主に財務畑を歩き、帝都復興事業や近隣五郡八二町村の合併に関わった。昭和十七年(一九四二)に肺疾患で退職したが、東京市で上司であった上原六郎に呼ばれ、昭和二十年札幌市に財政課長として入った。翌年四月経済部長、五月に助役となり、上原の市長退任後は市長代理を務めた。高田市長誕生後は助役を三期一二年務めた。市長就任当時、五九歳であった(人生記録)。

写真-7 原田與作市長

 原田市長は三十四年(一九五九)六月の定例市議会で所信表明演説を行い、①明るく正しい市政で市民の信頼を得ること、②国政、道政、市政の協力体制を強化すること、③市政に対する市民の理解と協力を得ること、④法定税目の最低税率による健全財政を堅持すること、の四点を市政の基本方針として掲げた(十期小史)。①は高田時代に市職員による汚職が数件発生していたことに対応している。③は住民にサービスの代価として応分の負担・協力を求めたいということを意味し、④は高田時代からの財政運営の基本方針であった。高田市政との違いは②であった。原田は、「市政とは当たり前のことを当たり前にやること」というような高田市政のやり方では、市の発展に対応した都市機能をもった施設整備は遅れるばかりで、この際「国、道、市、民間の総力を結集して街づくりにまい進することが新しく市長になった私の使命だ」と考えた(人生記録)。原田市長は、従来よりも大幅に多額の国費、道費を導入して、道都であり、急膨張を遂げつつある札幌市の都市建設を一挙に推進することを目指した。