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開催決定と準備

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 日本ではオスロ会議にて、冬季大会の同じく日本開催を主張していたが、東京開催が決定後、国内候補地の選定が本格的に進められていた。札幌では昭和十年十月二十三日に、札幌スキー聯盟常任幹事会にて招致運動を協議し、三十日には冬季オリンピック札幌招致期成会を設立した。道庁、札幌市の支援も加わって翌十一年一月二十七日に冬季オリンピック札幌招致特別委員会を設置し、誘致運動が展開されることになった。候補地としてはスケート関係者が推す日光、それとスキー関係者による札幌の二カ所が最有力であったが、大日本体育協会冬季オリンピック競技場選定委員会で三月十八日に札幌に決定となった。
 しかし、IOCの分離開催の問題により札幌開催は微妙となってきていたが、十月二十五日に全日本スキー競技聯盟全国代表委員会が、冬季大会の日本招致運動を決定するなど誘致運動は続けられ、十二年五月に第五回冬季オリンピック招致並に準備委員会が結成された(会長池田清道庁長官)。そして六月九日にワルソー(ワルシャワ、ポーランド)でのIOC総会にて、札幌での開催が正式に決定をみたのである。

写真-9 開催決定を祝賀する「大地も揺らぐ大行進」
(北タイ 昭12.6.20)

 札幌開催の報を受けた翌日(十日)、準備委員会の役員は、札幌神社に参拝して奉告祭が行われ、市内商店の店頭には五輪の装飾が飾られ、十九日には祝賀の旗行列と提灯行列が行われ、市内はオリンピックムードに沸(わ)きかえることになる。また、行列に歌われる、
皇紀よ二千六百年 世界の粋を集むべき
オリンピックの聖劇の 序曲の鐘は今ぞ鳴る

という世紀の祝典を迎える「祝歌」(作詞は加勢蔵太郎札幌一中校長)も作られていた(北タイ 昭12・6・14)。
 その後、大会の主催組織となり「一切の事業を計画実施する」(委員会規則第二条)、第五回冬季オリンピック札幌大会実行委員会の設立も、七月六日に決定した(委員長は石黒英彦道庁長官)。事務所は市役所内に置かれ、同会のもとで大会計画と準備が進められた。大会の会期は十五年二月三日から十四日までとされ、ボブスレーのコースを神社山、スケート競技場を中島公園、回転競技は三角山、滑降競技は手稲山、ジャンプは大倉山シャンツェ、選手宿舎は新設予定の小学校、大会予算は一四八万円などとなっていた。