札幌市では開催費用を約五一億三〇〇〇万円と試算し、この試算計画のもとで昭和三十六年三月十七日に市議会へ開催地立候補の件を提案した。社会党議員会は住宅、道路、下水、学校の新設整備の方がオリンピック開催より急務なこと、招致の審議が不十分なことをあげて反対にまわった。今回の公募の告示から四月三十日の締切期日まで余りにも短期間であったから、市でも決定を急ぐ必要があったし、議会で十分審議する時間がなかったことも確かである。この提案は市議会にて二十四日に賛成多数で議決承認されたことにより、札幌市では二十七日にオリンピック冬季大会招致委員会へ立候補を表明し、四月二十八日に同委員会へ正式に届け出をした。今回の公募には札幌市のほかに山形市、日光市、新潟県湯沢町、長野県白馬村など八カ所が、届け出をなし立候補を表明していた。これ以降は同委員会の選考を受けることになるが、札幌での現地調査は三十六年十一月十日、三十七年二月二十六日の二回なされた。
一方では、オリンピック招致へ向けての体制づくりも行われるようになる。一九六八年オリンピック冬季大会札幌招致委員会(以下、招致委員会と略記)がそれであり、一五七人の委員と原田市長を委員長とする一五人の実行委員、競技に関する一五人の専門委員が置かれていた。第一回の委員会が三十六年五月十六日に開かれ、運動方針として道議会へのはたらきかけを決めている。これに関しては六月十二日にオリンピック招致の請願書が提出され、これを受けて道議会では十月二十日に、札幌招致の決議案を満場一致で可決していた。
候補地の選考に当たっていたオリンピック冬季大会招致委員会では、三十七年五月十一日に、開催に好条件を持つ札幌市を候補地とすることを決定した。これを受けて札幌市では、六月六日に札幌市オリンピック冬季大会招致対策本部を設置し(規程を制定)、十九日にはオリンピック課を設置し準備に入ることになる。
札幌市は八月十四日に、日本オリンピック委員会(JOC。以下、JOCと略記)へ招致申請書を提出したが、JOCでは東京オリンピックの準備の真っ最中であったこともあって、申請書の承認は遅れ、十一月十四日に常任委員会で札幌招致の件が満場一致で承認され、そして二十八日の総会で正式な承認をみた。さらに政府の承認も必要としていたのであるが、当時の池田内閣の政府は、東京オリンピックに多大な出費を招いたこともあって、財政出動をともなう開催には消極的であり、閣議決定も遅れ気味であった。ようやく三十八年一月十六日の閣議にて、川島正次郎北海道開発庁長官の発議によって了解を得、十八日の閣議決定で正式に政府の承認を得る。ただ承認に際して、開催経費は市と道が負担するという条件が付され、将来的に不安の残る承認となっていたが、こうしてJOC及び政府の承認を得て札幌市は、正式な開催立候補地として認められることになった。二月七日に板垣武四助役がIOCのローザンヌ本部(スイス)にて正式招請状を渡し、札幌市は立候補の届出を行った。
国会でも三十八年二月十九日に衆議院、二十日に参議院にて「第一〇回オリンピック冬季競技大会札幌招致に関する決議案」が満場一致で可決され、誘致運動の強力な推進、準備体制の整備が国会からも支援を得ることになった。