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下水道網の整備と終末処理場の建設

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 真駒内に駐屯したアメリカ軍は、生活排水やトイレなどの汚水を当初豊平川に垂れ流していたが、これは豊平川の汚染を引き起こした。そのためアメリカ軍は札幌市からの申し入れで汚水処理施設を設けて処理した(道新 昭27・6・26、7・1、28・11・28、29・3・17、3・25、4・2)。このアメリカ軍の垂れ流しにかぎらず、工場排水や札幌市民の生活排水をほとんど創成川、伏籠川、豊平川、琴似川、新川などの河川に自然放流していたため、河川の汚染や付近住民の健康被害を誘発した(道新 昭27・5・15、29・2・28、33・12・7)。そのため伏籠川流域ではこの地域の区画整理事業をかねて伏籠川を埋め立てて下水道化する計画をたてた(道新 昭29・5・13、34・1・17)。一方、昭和四十年九月台風二三号は、北円山や桑園、北栄、北光、白石、米里などで洪水を引き起こしたが、この原因は無計画な宅地造成と共に不十分な下水道施設のために起こったともいわれ、そのため札幌市は新たな下水道計画を策定した(道新 昭40・9・12)。
 下水の浄化施設の考え方は、二十七年頃から計画され、三十一年には汚水処理の試験を開始した(道新 昭27・5・15、31・7・25)。そして都市計画協議会がまとめた『札幌総合都市計画』では、下水道網の整備だけではなく、雨水や生活排水などを下水道で集約して処理する施設も考慮した下水道計画を提言した。
 二十八年からはじめた下水道一〇年計画を再検討し、さらに五年延長して一五年計画としたり(道新 昭32・1・13)、三十三年には再び下水道一〇年計画(一一年計画と報道されていることもある)をつくり下水道網の整備を計画した。この計画では終末処理施設については用地取得が計画され、図4のように下水道の終末は河川への自然放流であった(広報 昭34・11・1)。また下水道整備のための下水道使用料徴収などを定めた下水道条例なども制定した(道新 昭33・2・27、4・25、7・22、広報 昭33・12・15など)。下水道一〇年計画は三十四年総額約三三億円でスタートするが、三十五年の主要事業一〇年計画で総額約三五億円となり、四十年道央新産業都市における札幌市建設六年計画では総額約一二〇億円、さらに四十二年札幌市建設五年計画では総額約二二〇億円と拡大した。それと共に三十八年の創成川終末処理場建設開始を皮切りに表11にあるように昭和四十八年中までに七カ所に処理場を建設し、河川浄化を図る計画も実施に移していった(道新 昭38・12・20、41・10・17、札幌市の下水道 札幌市下水道局 昭51など)。
表-11 下水道終末処理場
処理場名処理能力
m3/日
運転開始
年月
野津幌川3,000昭41.9 
創成川96,000昭42.4 
伏古川61,000昭43.4 
豊平川96,000昭45.10
定山渓3,300昭45.10
新川128,000昭46.9 
厚別38,500昭48.10
『札幌市の下水道』(札幌市下水道局 昭51)


図-4 下水道10年計画の区域と下水管系統図
『広報さっぽろ』(昭34.11.1)

 昭和三十五年『主要事業一〇年計画』策定時で、一九パーセント程度であった下水道普及率は、四十六年には全国平均四五パーセントを大きく上回り五五パーセントとなり、さらに五十五年の一〇〇パーセントをめざして整備を進めた(広報 昭46・9)。四十六年頃の下水道網計画は、図5のようになっている。

図-5 下水道計画構想図
『広報さっぽろ』(昭46.9)

 昭和四十一年からは終末処理場の完成に合わせて下水の自家処理をやめ下水道処理することを義務づけ、水洗トイレなどの普及をはかるようになった(道新 昭41・3・23、6・8、10・5、広報 昭41・9など)。