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工業地帯構想

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 戦後の北海道では、新たな開発計画をめぐる議論が活発に行われた。昭和二十三年六月末には北海道綜合開発調査委員会工業専門委員会が知事に答申を提出した。このなかで北海道工業に関して、第一に、現に発達している農産物、畜産物、林産物、鉱産物等を原料とする工業、すなわち食料品工業、その他広く化学工業を早急に充足・発展させること、第二に、未開発資源の開発に必要な金属素材、機械器具の需要を充足するための金属機械工業をはじめとする生産工業を急速に勃興・発展させることとされた。これにより「開発用の機械が出来て開発が進みて第二、第三次製造工業が出来るという段階に到達する。斯くして最終は輸出向の工業にまで発展せしむべきである」と展望されていた。計画として掲げられた工業生産価額は、昭和二十三年度に対して一〇年後には一二倍に達し、内訳をみると肥料六一・七倍、窯業四四・五倍、製紙パルプ三五・五倍、機械工業二二・二倍という計画である(北海道開発計画と経済復興計画)。戦後日本復興の課題に答えるべく、北海道においても重化学工業化を果たすことをねらった計画といえるだろう。しかし、実際に作成された北海道総合開発第一次五ヵ年計画は、これとは大きく異なり、北海道工業のそれまでの特性を生かし、石炭、木材、農水産物を原料とする工業すなわち原料立地的工業に重点を置くものであった。
 この一方で、戦後には、札幌、小樽を結びつけ「札樽工業地帯」を形成しようとする考え方が生まれてきた。札幌・小樽両市からなる札樽経済協議会が昭和二十六年九月に結成され(道新 昭26・9・29)、十二月に創立総会が行われ、当面、国鉄札幌・小樽間の電化・複々線化、国道札幌・小樽間の改良・拡張、札樽工業地帯の造成、港施設の整備、工場誘致などをめざして運動を行うことが話し合われた(道新 昭26・12・7)。このころ北海道庁内の工業対策委員会でも札樽地区の工業地帯調査を準備していたので、これを札樽経済協議会と合同で行うこととなった。この調査は、北海道商工業振興対策委員会工業地帯調査委員会『札樽地区工業地帯調査報告書(札幌市・小樽市およびその中間町村)(昭和27年12月現在)』として昭和二十九年に発表された。これは九二〇頁にもおよぶ大部の報告書であり、札幌・小樽およびその中間町村において原材料、電力、用水などの有利な立地条件を生かすことができるならば、工業地帯形成は可能であると結論づけている。
 三十年三月に、札樽経済協議会は、札幌・小樽両市建設部に札樽工業地帯の立地条件調査を依頼した。その計画は、都市計画上よりみた工場適地を選定し、各地区ごとに地質、水利、現況を調査し、翌三十一年から工業地帯造成にかかるというものであった。とりわけ、桑園・北円山から琴似につながる北部工業地帯、苗穂・菊水の東部工業地帯、小樽の銭函方面が期待されていた(道新 昭30・3・26)。